2011年6月15日水曜日

京介「あやせ、結婚しよう」 あやせ「ほ、本当ですかお兄さん!?」



「あやせ、結婚しよう」
「ほ、本当ですかお兄さん!?……って、もう!
どうせお兄さんのことだから、わたしをからかって遊んでるんでしょう?」

ちらり。前髪の間から覗く目が、俺を見つめる。
非難するような、それでいて何か催促するような、蠱惑的な瞳だ。



「嘘じゃないさ。本気でプロポーズしてる」
「そんなこと言ったって、騙されませんからね。
お兄さんには何度も何度も、そうやってわたしに……わたしを……弄んで……」

消え入るような声。甘やかな雰囲気が辺りに流れる。
あやせは膝をついてこちらに近づき、その人形のような顔をゆっくりと近づけてきた。
長い黒髪から漂う、なんともいえぬ良い香りが鼻孔を擽る。過度の期待は禁物だ。分かっちゃいる。
んなことは分かっちゃいるんだが、目の前の桜色の唇が自分のそれに触れる場面を想像してしまう俺がいる。
当然、あやせの顔は俺のすぐ右脇を通り過ぎた。
ほとんど体を密着させた形で、あやせが俺の背中に手を回す。
カチャリ。

「っはぁ! すまんあやせっ!」

俺は拘束を解かれた両手で、あやせの体を押し倒し――いちもくさんに逃げ出した!
もう手錠でベッドに縛り付けられるのはごめんだ。
いつまでも女子中学生にしてやられてばかりの俺じゃねえんだよバーカ!

「――お兄さん?」

酷く冷えた声が聞こえた。

「またわたしのこと、騙したんですね」

たまらず振り返る。
するとそこには、黒のフレアミニスカートを太股の付け根まで捲れさせ、
ピンクのニットチュニックの胸元を乱したあやせが、
俺に突き倒された姿勢はそのままに、虚空を見据えていた。
怖ぇ!

「もしも出て行ったら………ますから」
「あ、あやせさん、今なんと仰いました?」
「もしも今出て行ったら、お兄さんにレイプされたって言いふらしますから」
「ごめん本当にごめんなさい出て行きませんあやせ様の言うとおりにします」

床に平伏し額ずけた。
これと似たような状況がつい最近あったような気がする。

「さっきのは……どこまで本気だったんですか?」
「ん?」
「な、なんでもありません。
一生思い出さなくていいです。そのまま死んで下さい」

ひでぇ!
でもここまで容赦のない暴言だといっそ清々しいね。
快感に変換出来る日もそう遠くないんじゃないだろうか。

俺はこの部屋に招かれた時、最初にあてがわれた座布団に腰を下ろす。
そっからどういう経緯で手錠をかけられたかは、各々の想像に任せる。
ヒントを言うなら……俺はあやせをからかいすぎたんだよ。
あれ、これヒントになってなくね?

「ごほんっ」

わざとらしく咳払いをひとつ。
あやせは神妙な顔つきになって言った。

「今日、お兄さんに来てもらったのは―――」

「わたしのことで……その……相談があるんです。
聞いてもらえますか?」
「相談相手に手錠かけるか、普通?」
「お兄さんはわたしが油断するとすぐにセクハラしようとしますから。予防策です」

はいはいどうせ俺は近親相姦上等の犯罪者予備軍ですよ。
ま、今回の件であやせの予想の斜め上を行くセクハラ発言をすれば、
ちょっとの間あやせの思考停止を狙って、手錠を外してもらえることが判明したけどな。
ちょろいもんだぜ、と俺は心中で独りごち、

「それで、相談って?」
「実は……お母さんが最近、モデルをやめろってうるさくて……。
ほら、わたし、来年から中学三年生じゃないですか?
お母さんもお父さんも、わたしには都内の進学校に行って欲しいみたいなんです。
それで、モデル活動は受験勉強の邪魔になるから……。
お父さんは両立できるならそれでいいって言ってくれているんですけど、お母さんはダメの一点張りで……」

どうしたらいいと思いますか?と言いたげな上目遣いになるあやせ。
可愛い――じゃなくて。

「オーケー、話は分かった。
いくつか聞きたいことがあるんだが」
「……なんですか?」

ここで「めんどくせえ、帰る」なんて言ったら即行で刺される自信がある。
どうして桐乃といい、あやせといい、
俺の周りにいる女子中学生は相談相手にもっと敬意を払わないんだ?
悩み事で必死なのは分かるがもっと穏やかに話そうぜ?な?

「まずひとつめ。あやせはその、都内の進学校に行きたいって気持ちはあるのか?」
「ありません」と即答。
「なんで?」
「そんなの、当たり前じゃないですか。
桐乃と――友達と離れ離れになるのが嫌だからです。
偏差値の高い高校なら、この近くにもありますし」
「じゃ、ふたつめ。地元の高校に行きたいって気持ちを、あやせはお母さんに伝えたか?」
「言ってません。どうせ突っぱねられるに決まってます」
「まあ、そうなるだろうな。
最後にみっつめ。……どうして俺なんだ?」

あやせは顔にクエスチョンマークを浮かべて言った。

「何を言ってるんですか?」
「だから……どうしてそういう大事なことを、俺に相談しようと思ったんだ?
学校の友達や、それこそ桐乃とか、先生とか、いくらでも相手がいただろ」

「そ、それは……」

あやせは酸欠の金魚みたく口をパクパクさせ、目を泳がせる。
ま、まま、まさか!

「俺のことが好きで、」
「そんなわけないじゃないですか!ブチ殺しますよ!?」
「調子こいてすいませんマジすいません殺さないで」
「わたしがお兄さんに相談しようと思ったのは!
ええと……わたしがお兄さんに相談しようと思ったのは……」

あやせは幽かに頬を朱に染め、俺を睨み付けながら

「……っ。やっぱり言いません。
言ったらお兄さん、調子に乗っちゃいますから」
「なんだよ。喉まで出かかってんなら言えよ」

あやせは唇を引き結ぶ。
物言わぬ貝の真似をしているのだろうか。可愛い。

「……お兄さんの意見を聞かせて下さい」
「相談してもらった手前、何か劇的な解決策を言ってやりたいとこだけどよ、
まずはあやせのお袋さんにあやせの考えてることを、はっきり伝えたらどうだ」
「無意味です、そんなことしたって……」
「言ってみなくちゃ分かんねえだろうが。
あやせのお袋さんは、あやせのことを思って、あやせに都内の進学校に進ませたがってるんだろ?
なら、ちゃんとあやせがどうして地元の高校に進みたいのか、きちんと理由を説明する必要がある。
何も説明していない現状じゃ、難しい勉強が嫌で駄々こねてるように思われても仕方ないと思うぜ。
あやせは、勉強ができないわけじゃねえんだろ?」

正座のまま、左右の膝をもじもじと擦り合わせるあやせ。
目を合わそうとしても、逸らされる。
あのー、あやせさん?

「わたしは……そんなに勉強が出来るほうじゃありません」

面を上げたあやせは、平坦な調子で言った。

「ちなみに、クラスの中でいったらどのへん?」
「中の下、くらいです」

精確に自己評価できる奴なんてそういないし、
自尊心ある一般人と同様、あやせもある程度は自分を過大評価していると考慮し、実際は下の上あたりだろう。
あいたたたた。そりゃ親にモデル活動やめて受験勉強専念しろ言われても仕方ねえわ。

しかしここで頭ごなしに「モデルやめちまえよ」と言っても、素直に聞き入れられるわけがない。
お母さんと同じことしか言えないんですかと罵倒され、
お兄さんに話したわたしが馬鹿でしたと蔑むような目で見下され、
もうわたしに関わらないでくださいあと早く桐乃と兄妹の縁を切って下さいさもないと物理的に切り離しますよと最後通告される未来が見える

ね。

「俺も中学三年の初めは、あやせと同じくらいの成績だったよ」
「お兄さんと一緒にしないでください」

最後まで聞けや!?

「あのな、お世辞にもあやせの成績は良いとは言えねえ。
その自覚はあるんだよな?」
「……ありますけど?」
「じゃあ、どうして自分の成績が悪いのか、考えたことはあるか?」
「それは……忙しくて、勉強に充てる時間がないから……。
モデルや、桐乃と……友達と遊ぶ時間も欲しいし……」

ここで、あやせと同じ読者モデルとして活動し、
部活にも精を出し、その上で学業においても優秀な成績を収めている桐乃を引き合いに出すのは、
あやせにとって余りに酷というものだろう。
そう思って黙って聞いていたのだが、あやせは敏感に俺の思考を読み取ったようで、

「桐乃は、すごいです。……わたしよりもずっと忙しくて、
勉強する暇なんてほとんどないはずなのに、いつも成績は学年で五番以内で……。
それに比べたら、わたしなんて……」

自嘲気味の笑み。
その表情には、見覚えがあった。
桐乃の――妹の活躍を喜びながらも、どこか釈然としない、嫉妬と憧憬の入り交じった感情。
あやせ、今のお前は、一年と半年前までの俺に、ちょっとだけ似てる。

「桐乃のことはおいといて、だ。
何で一番プライベートの時間を取られてるかって言ったら、やっぱモデル活動、だよな?」

コクリ、と頷くあやせ。

「モデル活動の頻度を減らすとかはどうよ?
それかいっそのこと休止して、合格が決まってから復帰するとか……」
「お兄さんは何も分かっていないんですね」

ぐふっ。この怜悧な視線、たまりませんなぁ。
おいそこ、変態を見るような目で俺を見るな。

「わたしはモデルでも、TVに出るような、超売れっ子モデルじゃありません。
ただの読者モデルです。
わたしの都合で撮影の日を変えたりなんてできませんし、休止なんてもっての他です。
わたしが消えても、代わりはいくらでもいますから……読モの入れ替わりが激しいのも、それが理由です。
もし半年も活動をやめたら、次に復帰するときは、新人として一からやりなおさなくちゃいけないし、
それに何より……桐乃と一緒にモデル活動できなくなるなんて、わたし、耐えられませんっ!」

頭撫でてぇ。今すぐ抱きしめてぇ。
子供みたいに我が侭言うあやせたんマジ天使――さて。

「あやせ、あのさ。あれもやりたい、これもやりたい、
でもあれはやりたくない、これはやりたくないって、そんな理屈は通らねえよ」
「なっ……」

「俺の通ってる高校は平凡な偏差値で、
入学できたことは誇りでも何でもねえけどさ。
それでもアホな中学生の俺にとっちゃ、その高校の入学試験は、すげぇ難関だったんだよ。
そんなとき、俺がどうしたかっていったら……やっぱ、勉強だった。
もちろん、独力じゃどうしようもなかったから、友達に教えてもらって、必死になって勉強したんだ」
「わたしは、お母さんの言うような偏差値の高い高校に行く気はありませんから!」
「成績が悪いあやせがそれを言っても説得力が皆無なんだよ。
もしもあやせが成績優秀、どこの高校でも行ける実力で、
地元の高校に通いたいと言えば、あやせのお袋さんも考え直すだろうさ」
「ぐっ……」
「このままあやせとあやせのお袋さんが平行線辿っても、
いつかはあやせが折れなくちゃならない時が来る。 
あやせは未成年だ。電話一本で終わりだろうよ。
それをしないのは、あやせのお袋さんが、
あやせに納得した上でモデルをやめてもらいたいからなんじゃねえのか」
「………」

あやせの黒く円らな瞳が、徐々に充血し、潤みを帯びていく。
これと似た光景を、俺はもう何度も目にしていた。
自宅で。俺の部屋で。桐乃の部屋で。リビングで。

中学生の、しかも女の子にとって、正論ほど耳に痛いモンもないだろう。
でも――俺は言わなくちゃならない。
相談を受けた以上は、嘘偽りなく、はっきりと、真正面から自分の考えを言う。

「なああやせ。いっぺん、読モしながら本気で勉強してみたらどうだ?
それで次の模擬試験か定期試験で、良い点数とって、お袋さんを驚かせてやれよ。
モデルが忙しいとか、友達と遊ぶのが忙しいとか、そういうことを理由にして勉強できないってんなら……。
俺に言えることは何もねえよ。
お袋さんにモデルやめさせられて塾通いさせられようが、お前の自業自得だ」
「……って下さい」

固く握られた手の甲で、透明な雫が弾けた。
うわ、ついいつものノリでやっちまった!
後悔の炎が全身を焼くが、時既に遅し。

「す、すまんあやせ!俺、調子に乗っちまって――」
「帰って下さいっ!!」

ばっちーん。いい音が鳴った。
頬をはられたのだと気づくのに、三秒くらいかかった。
ものすごい威力だったね。
いつか公園で桐乃と相思相愛宣言したときのビンタの少なくとも三倍はあったと思う。

情けない話だが、俺はそれからまともに場を取り繕えもせず、
這々の体であやせの家から逃げ出した。というより、追い出された。

自宅近く、頬に紅葉を貼り付けた俺を、近所の奥様方は奇異の感を宿した目で眺めていたが、
しばらくすると何事も無かったかのように談笑を再開した。
ハハ、これだけは確信を持って言えるぜ。明日か、早けりゃ明後日中には、
お袋から『隣の奥さんから聞いたけど……あんたまた女の子泣かせたの?』と蔑みのこもった声で言われるに違いない。

夜。
なんとか氷水で頬の腫れを治し、夕食の席をやり過ごした俺は、
自分の部屋のベッドに倒れ込み、深い溜息をついた。
にしても、危なかったな。
お袋も親父も平然としてるのにさ、桐乃の奴は俺の頬がおかしい事に勘付いたみたいで、
可愛らしく小首を傾げて
『あんたさぁ、今日顔のバランスおかしくない?』
なんて言ってくるんだもんよ。
ま、『いつものことか』と勝手に納得してくれたから良かったけどよ……って、思い出したらなんか腹立ってきたわ!
人の顔見てバランスおかしいとかよく考えたらすげぇ暴言だよ!よく我慢できたな俺!

「………はぁ」

無理矢理テンションを上げてはみたものの。
あやせの泣き顔が、俺の隙をついては瞼の裏に浮かぶ。
ほんと、何やってんだろうな……。あやせに偉そうに説教かますなんて……俺らしくねえよな。
俺がそんな風にプチ鬱に入りかけていたその時、 携帯が鳴った。緩慢な動作でフラップを開く。
真奈美か。――きた。俺の心のオアシスきた。

「もしもし?」
「もしもし、きょうちゃん?
いま、電話しても大丈夫だった?」
「ああ。さっき晩飯を食い終わったところだ。
で、どうした?」
「ん、とね。なんだか、急にきょうちゃんの声が聞きたくなっちゃって……」
「………」
「いま、ドキッてした?」

最近、真奈美の中で俺をドキッとさせるのがマイブームなんだそうだ。
俺は努めてぶっきらぼうな口調で、

「しねーよ」
「えぇー」
「何が『えぇー』だ。まあ、真奈美と話したかったのは、俺もだけどさ」
「わ、わわっ」

電話の向こうで慌てふためく真奈美の姿が容易に想像できるね。

「きょうちゃん、それ、本当?」
「ああ。ちょうど真奈美に、聞いてもらいたい話があってな?」
「きょ、きょうちゃんが、わたしに、大事な話!?」

誰も大事な話なんて言ってねえ。
おばあちゃーん、耳が遠くなるにはまだ早いですよー?

俺は極めて第三者的な視点から、
知り合いの高校生がこれまた知り合いの中学生に偉そうに説教をかまし関係が拗れた顛末を話した。
まなみは電話の向こうでお茶を啜り、しみじみと言った。

「きょうちゃんは自分に甘くて、他の人には厳しいから」

あれ、全然騙せてなくね?つか何気に真奈美の俺に対する評価辛口じゃね?

「でもねえ、わたしはきょうちゃんが、誰にでも厳しくないこと知ってるよ。
きょうちゃんが熱くなっちゃったのは、その子のことが大切で、
その子の相談に、本気で乗ってあげようって、思ったからじゃない?」
「お前はいちいち大袈裟なんだよ……」
「ふふっ、きょうちゃん、照れてる」

からかうなっての。
でも、なんでだろーな、こうして話を聞いてもらって、
俺のしたことを適当に肯定されるだけで、随分心持ちが楽になるんだよな。ホント、真奈美様々だよ。

「俺の話はそんだけだ。真奈美は、何か俺に用があったんじゃないのか?」

それともマジで俺の声が聞きたかったから電話してきたのか?

「わたしのは、もういいよう。
きょうちゃんが、どうして今日図書館に一緒に行ってくれなかったのか、知りたかっただけだから」
「悪かったな。心配かけたか?」
「ううん」

穏やかな否定。その後に逆接が続くことを、俺は知っていた。

「でも、本当に何かあったときはちゃんと教えてね、きょうちゃん?」

真奈美との電話が終わり、
さて受験勉強でもしますかと伸びをして身を起こした矢先、ノックの音が響いた。
いや、違うな。ノックなんて可愛らしいもんじゃねえわ。
桐乃のやつめ、いったい何度『人様の部屋のドアを蹴るな』と言ったら分かるんだ?
ここは一発ガツンと――

「ねえ、いるんでしょ?開けるよ!?」

兄の威厳の回復を――

「いるなら返事しなさいよ!何かやましいことでもしてたの?」
「すみませんでした桐野さんやましいことは何もしてません次からすぐに返事します」

Tシャツに短パン。
初秋の季節には少し寒くねーかと言いたくなるほど露出度の高い部屋着を着た桐乃は、
姑のように目を眇め、ぐるりと俺の部屋を見渡し、やがて俺の右手に、正確には携帯に目を止めた。

「あんたさあ、誰と電話してたわけ?」
「は?誰とでもいいだろ」
「地味子?」

まったく、こいつの勘の良さには恐れ入る。

「だったら何なんだよ」
「学校でも図書館でも一緒の癖して、家でも連絡とりたいんだ。キモ」
「っせえな。お前には関係ねえだろうが。用がねえなら、出てけよ」
「はぁ?せっかく秋の夜長を寂しく過ごしてるあんたのことを気遣って来てあげたのに、何その言い方!?」

それなら初めっからそう言えや!?
どうしてお前の俺に対するコミュニケーションは喧嘩腰がデフォルトなんだよ!

それから俺たちは久々にシスカリで対戦することになり、桐乃の部屋に移動した。
シスカリとは個性溢れる妹たちを操作して戦う格闘ゲームのことで……今更説明する必要もないか。
対戦開始から早三十分。例によって例の如く、桐乃にボコられ通しの俺。
桐乃はコンボを繋ぎながら、何気ない口調で言った。

「今日、どこ行ってたの?」
「真奈美と一緒に図書館だ。いつも通りな」
「ふぅん」

桐乃のミス。コンボから脱出した俺はバックステップで距離を取り、遠距離攻撃で牽制する。
あやせに呼び出されて相談受けてたなんて、口が裂けても言えねえよ。
曲解されて罵倒されてしばらく口を利いてもらえなくなるのがオチだ。

「じゃ、なんであんたの頬が腫れてるの?地味子にぶたれたワケ?」
「それは、ええと、まあ……そうだよ」
「嘘じゃん!?」

桐乃の操作が乱れる。桐乃の遠距離攻撃の間隙を縫い、俺はキャラを一気に肉薄させ、近接攻撃を叩き込んだ。
画面端まで持って行く。……勢いで嘘を取り繕うには、新しい嘘を吐くしかない。

「図書館で勉強してると、もの凄い眠気が襲ってきてな?
あんまり勉強に身が入らないから、気合いを入れる意味で、真奈美にビンタしてもらったんだよ。
でもあいつ、普段からそういうことしてねえだろ?
加減わかんなかったみたいで、こうなっちまったんだ」
「あんたって………」
「……あん?」
「真性のマゾだったんだ」

その瞬間、俺のコンボは最終必殺技まで繋がり、俺のプレイ画面に「win!」の文字が表示された。
あれ、嬉しくねえ。勝ったのに全然嬉しくねえ。

「疲れた。部屋に戻るわ」
「えっ、まだ全然やってないじゃん?
それに勝ち逃げとかありえないんですケド」

Tシャツの袖を掴まれる。

「あのな、これでも俺は受験生なんだよ。息抜きにマジになれるほど暇じゃねーの」
「はぁ?何そのムカツク言い方。あたしだって受験生だし!」
「じゃあお前も勉強しろよ」

むっと頬を膨らませる桐乃。
もともとの丸顔がさらに丸くなり、年相応の雰囲気を帯びる。
そうだ。勉強で思い出した。

「お前ってさ、いつ勉強してんの?」
「いきなり何?」

おいおい、そんな警戒心むき出しにしなくてもいいだろ。

「いや、モデル活動とか、部活とか、色々やってて忙しいだろうに、
よくそんな成績を維持できるなあ、と……」
「ふぅーん……聞きたいんだ?勉強の秘訣」

チッ。いちいち癪に障る奴だな。
これでも最近は随分マイルドになったと思うけどよ。

「あんたがーどうしてもー受験勉強にあたしの勉強法を役立てたいって言うなら、
色々伝授してあげてもいいケド?」

苛立ちを微笑みに変換して、表情に出力する。これもあやせのためだ。

「お願いします」

その後、俺は今度の休日に桐乃の買い物の荷物持ちをするという誉れ高い任務を与えられ、
夜中の十一時までシスカリに付き合わされた末に、やっと桐乃流勉強法を伝授してもらった。
糞生意気で何かと俺を苛つかせる桐乃だが、
部屋を出る間際、

「ねえ」
「なんだ」
「お、おやすみなさい」
「お、おう。おやすみ」

と寝る前の挨拶を忘れないあたり、
桐乃の俺に対する態度に、『目に見える程度』の変化が生じてきていることは認めなければならない。
夏の一件がトリガーだったのは、明らかだ。
思い出すと未だに顔から火を噴きそうになる、あの日の出来事。
桐乃と和やかに『あんなことがあったな』と語り合える日が来るのは、いつになることやら。


部屋に戻って携帯をチェックすると、メールが一通届いていた。
差出人:マイラブリーエンジェルあやせたん

「ひゃっほ――」

両手で口を押さえる。
この家、妙に壁が薄いんだよな。おちおち快哉も叫べないから困るぜ。
俺は逸る気持ちを抑えて、メールボックスを開いた。

本文:明日の夕方五時 中学校近くの公園に来て下さい

実に簡潔で淡泊な文章だ。
しかし着信拒否にされてもおかしくないと思っていた俺にとって、
あやせからのメールは贖宥状にも等しかった。
小躍りしたい気持ちを抑えてフラップを閉じる。

時は流れて翌日の放課後。
腕時計に目をやると、まだ約束の時間には二時間ほど余裕があった。

早すぎる気もするが待ち合わせ場所に行くか。

「きょうちゃん、帰ろ?」

真奈美が鞄を手にやってくる。

「ああ」

赤城の非難するような視線をやり過ごし、真奈美と連れだって教室を出る。
今日の真奈美はご機嫌だ。
膝の前で鞄をぱたぱたさせる仕草が、実に分かりやすい。

「何かいいことあったか?」
「んーと、ね?
昨日、わたしの考えたお菓子を、お父さんに食べてもらってね、
もしかしたら、それがお店の商品棚に並ぶかもしれないんだぁ」
「そりゃすごい」
「でね、でね?もしよかったら、きょうちゃんにも食べてもらいたいなあって……あっ」
「ん?」

真奈美の視線を辿る。
するとそこには、一足、いや二足は早く、学校指定の冬服を身に纏った黒猫の姿が。
ほどなくしてあちらも俺と真奈美の姿を認め、俺たちはしばし見つめ合い、どちらからともなく距離を詰める。
できれば顔を合わせたくない、というのが本音だった。
何も黒猫のことが嫌いになったわけじゃない。むしろ逆だ。
俺の自惚れじゃなけりゃ、多分あっちも同じ気持ちだろう。

「よっ」
「こんにちわ、先輩」

「…………」
「…………」

会話が続かねえ。
あの夏の一件以来、俺はどうも黒猫と上手く接することができないでいる。
色々と話したいことはあるんだが、桐乃との約束を守るために、
必要以上に遠慮してしまうというか、自制してしまうというか……。

「あ、あのね、黒猫さん、きょうちゃん?
こんなところで見つめ合ってたら、通行の邪魔になると思うよ?」
「そ、そうだな」
「先輩」

黒猫は微動だにせず問いかけてきた。

「わたしはこれから部室に行くのだけれど……先輩も一緒にどうかしら」

黒洞々たる瞳が、まるで暗示をかけるかのように、ひたと俺を見据える。
隣で真奈美が身を強張らせる気配がした。

「わり、今日は用事があるんだ。
部室にはまた近いうちに、顔を出すよ」
「そう。部長に伝えておくわ」

黒猫はクールに言い放ち、颯爽と俺と真奈美の間をすり抜けて行った。
「ベルフェゴール……どこまで邪魔をするつもりなの」という意味深な言葉を残して。

金縛りからとけた真奈美が、ほう、と深い溜息を吐く。

「きょうちゃーん……わたし、やっぱり黒猫さんに嫌われてるのかな?」
「なんでだよ。真奈美は何も嫌われるようなことしてねえだろ。
つか、真奈美を嫌いになるような奴は、人間そのものが嫌いなんだろうさ」
「えへへ、やっぱりきょうちゃんは、優しいね」

聞き飽きた台詞をスルーし、靴を履き替える。
校門から出てしばらく歩いたあたりで、俺は足を止めた。
ここの角を右に曲がるのが、あの公園への最短路だ。

「どしたの?きょうちゃん」
「俺、今日はこっちなんだ」
「ほえ?」
「中学校の友達と約束しててさ。さっきも黒猫に言ってたろ」
「え、あれはわたしのお菓子を食べるっていう……」
「ああ、あれはまた今度な。
多分、家に帰る頃には飯の時間だろうから」
「きょーうーちゃーん……。ひーどーいーよー……」
「何がだ?」
「きょうちゃんの嘘つき。ふーんだ」

真奈美はぷいと顔を背け、ぷんぷんと擬音を発しながら歩いて行く。
ごめんな、真奈美。小さな背中に謝りつつ、俺は面舵を取る。
中学校の友達に会いに行く、か。なかなか上手い表現だったな。
真奈美はおおかた『中学校時代からの旧友に会いに行く』と思っているのだろうが、
実際のところは『現役女子中学生のあやせたんと公園で逢い引きデート』だ。

公園に到着すると、当然のことだがあやせは来ていなかった。
ですよねー。まだ約束の時間まで一時間半もありますもんね。
思い詰めた表情のあやせがベンチに座って待っている――そんな展開あるわけねえよな。
漫画やアニメじゃあるまいし。

「にしても殺風景な公園だな、ここは」

ブランコも鉄棒もシーソーもない。
遊び場と言えるのは小さな砂場くらいで、あとはだだっ広いだけの、寂れた公園だ。
近場の自販機で缶コーヒーを購入し、ベンチに腰掛ける。
コーヒーをちびちび啜りつつ、携帯でニュースサイトをチェックしつつ時間を潰していると、
カフェインの奮闘も虚しく、睡魔が襲いかかってきた。
昨日、桐乃の部屋を出たのが夜の11時で、受験勉強が終わったのが夜中の2時すぎ。
今年に入ってから一日三時間を勉強に充てることを真奈美と約束し、律儀にそいつを守ったことが仇になった。
瞼が重い。俺は『考える人』のようなポーズをとって、目を瞑った。


「……さん。お兄さん」

誰かに体を揺すられている。

「ん……もうちょっと寝かせてくれ」

耳許で響くウィスパーヴォイス。

「起きないと、後悔しますよ」
「いやあいい朝だなあ本当いい朝だ」
「今は夕方です」

寝ぼけ眼を擦り、俺を揺り起こしてくれた女の子の姿を確認する。
和装の似合いそうな黒髪、端正な目鼻立ち。
西に傾いた太陽の光は、まるで後光のようにあやせのシルエットを朱金色に縁取っている。
地上に舞い降りた天使と形容するに相応しい美貌だ。新垣あやせ。君は美しい。

「あまりジロジロと見ないでください。気持ち悪いので」

はぁん。なんなんだろうね、この感覚は。殺意と悦楽。
桐乃になじられるのとあやせになじられるのとでは、なぜこうも感じ方が違うのか。
今後の主要な研究対象になりそうだ……と俺がニヤつきを我慢できないでいると、
あやせはふと胸の前で両手を重ね合わせ、自分を罰するようにぎゅっと下唇を噛み、

「わたし、こんなこと言うつもりはないんです。
心の中では思っていることと、口に出す言葉は別物ですよね?
でも、どうしてかお兄さんの前だと、考えたことがすぐ口を衝いて出てしまうんです……」

オーケー。あやせが本気で俺のことを気持ち悪がってるのはよく分かった。
だからそれ以上ナチュラルに俺の心の抉るのはやめろ。

「そういや時間は……」

腕時計に目をやると、短針は丁度4に重なったところだった。
俺が転た寝していたのは、半時間ほどのことだったらしい。俺が言えた台詞じゃねえが、

「一時間も早くに来てどうするつもりだったんだ?」
「わ、わたしは授業が終わって、することが無かったから来ただけです。他意はありません。
そういうお兄さんこそ、どうしてわたしよりも早くにここに来ていたんですか?」
「あやせに一刻も早く会いたかったから」
「……ッ。もう!からかわないで下さい!」

あやせが手を振りかぶる。
お、叩かれる?二日連続でビンタきちゃう?
しかしいつまでたっても俺の両頬は無事で、薄く目を開けてみれば、しゅんと項垂れたあやせがいた。

「怒ってないんですか……昨日のこと……?」
「怒ってねえよ。昨日は、俺が悪かった。
つい桐乃の奴にするみたいに、熱くなっちまってさ。
ビンタのことは気にすんな。腫れも一日で引いたしよ?」

あやせはまじまじと俺の頬に視線を集め、胸の前で組み合わせていた手を、そっと伸ばしてくる。
恐らく無意識の行動に、邪な期待をしたのがいけなかった。
この年頃の女の子は、異性の心象を読むのが本当に上手いんだよな。

「わ、わたしったら何を……」

くそっ、あやせに撫で撫でしてもらう貴重なチャンスが!

「ま、座れよ」

ベンチの右脇に移動すると、
あやせは頬を赤く染めつつ隣に腰を下ろし体を密着させてきた――というのはもちろん俺の妄想で、
左端に座り防護壁を張るかのように鞄をベンチの中央に置いた。

あやせは絞り出すような声で言った。

「昨日は、せっかくお兄さんに相談に乗ってもらったのに、あんな風に追い返してしまって、すみませんでした。
わたし……、モデルをやめることにしました」
「そっか、ついに決心したんだな……って、ええええええぇ!?
マジで?そんなにあっさり決めちゃっていいの!?」

思わず身を乗り出した俺に、あやせはびくっと体を竦ませて、

「な、なんでそんなに驚くんですか?
お兄さんが言ったんじゃないですか……したいことばかりして、したくないことはしない、そんな理屈は通らないって」

ああ、言ったよ。確かにそうは言ったけどさあ……。
あれはあやせを鼓舞するために、勢いで言っちまったようなもんで……。

「つーか、モデルやめろ云々は前々からお袋さんに言われてたんだよな?
なんで俺の一言で決心がついたんだ?や、やっぱあやせにとって俺の存在は――」
「変な誤解はしないで下さい。お兄さんが考えているようなことは『一切』ありませんので」

場数を重ねる事に言葉のキレが増しているような気がするのは俺だけか?

「昨日あんなこと言った手前、こんなこと言うのもなんだけど、
あやせはモデルをやめちまうことについて、きちんと納得できたのかよ?
言ってたよな、桐乃と一緒にモデル活動できなくなるのが辛いって」

押し黙るあやせ。
納得できてねえに決まってるよな。
一晩考えて諦められるようなら、あやせのお袋さんも苦労しねえわ。

「納得は、できていません。
でもお兄さんの話を聞いたら、仕方ないなって思ったんです。
ずるずるモデルを続けても、近いうちにお母さんが事務所に連絡するでしょうし……」
「それならいっそのこと、やめちまおうってか?
読モ続けながら、いっぺん本気で勉強してみるってのは?」
「わたしは、お兄さんが思っているほど、器用じゃありません」

神妙な顔で、首を横に振るあやせ。
なんだかなあ。

「どうしてお前は自分のことに関して、そんなに諦めがいいんだ?」
「えっ」
「桐乃のことにはあんなに一生懸命になれるのによ。
あやせはあれか、自分のことはどうでもよくて、他人には尽くすタイプなのか?
……いい嫁さんになれそうだな」
「な、何を言ってるんですか?」

俺にも分かんねえよ。

あやせは微風に乱される髪を耳にかけながら、

「お母さんを見返してやりたい気持ちはあります。
でも、どんなに頑張ったところで、わたしは桐乃にはなれない……」

桐乃は天才じゃねえよ。"努力の"天才なんだ。
思わずそう口走りそうになり、冷や汗が出た。
昨日の二の舞になるのだけは避けなくちゃな。

「勉強ができる奴とできない奴の違いってさ、結局のところ、どんだけ効率よく知識を吸収できるかだろ。
あやせが一人で勉強するのに限界を感じてるなら、誰かの助けを借りたらどうだ?
勉強ができる奴にくっついて教えてもらうとか、お袋さんに頼んで、
空いた時間に家庭教師つけてもらうとか……モデルを続けながらでも、効率よく勉強する方法はあるんじゃねえか?」
「学校の仲の良い子はみんな塾に通ってて、学校が終わってから一緒に勉強する時間なんてありませんし、
桐乃は……桐乃に迷惑はかけたくない」
「迷惑ねえ。あやせが困っていると知れば、桐乃は喜んで協力すると思うがな」
「それが嫌なんです。桐乃は優しいから……。
必要以上にわたしに構って、桐乃の勉強が疎かになるなんて……わたし……」

はぁ、そうですか。美しい友情ですね。

「じゃあ、家庭教師は?」

これが一番現実的な解決案だと思う。

「家庭教師を雇えば、やっぱりモデルはやめることになると思います。
あの人……お母さんは……中途半端なことを許さない性格なんです」
「じゃあ……あやせのお袋さんの知らない奴に、勉強を教えてもらうってのはどうだ?」

あやせはチラと俺を一瞥し、

「誰に頼めばいいんですか、そんなこと」

いやそこは自分で考えろよ!
と内心ツッコミつつも、脳内プロファイルに検索かける俺。
あやせの同級生じゃなくて、高校入試の経験者で、
それなりにあやせと親しい奴ねえ……お!いいのみっけ。

「真奈美はどうだ?お前らここんとこ、俺の知らねえところで仲いいみたいだし」
「だっ、ダメです!」

あっさり駄目出しされた。なんで?
相性的にもあいつの学力的にも、かなりいいチョイスだと思ったんだけどなあ。

「真奈美さんも今年、大学受験じゃないですか。
わたし、桐乃と同じくらいに、真奈美さんにも心配をかけたくないんです」

「そっか。よく考えりゃ、そうだよな」

今なら、なぜあやせが他ならぬ俺に相談を持ちかけてきたのか、という疑問に答えを出せる気がする。
きっとあやせは、思い切り心配をかけようが、迷惑をかけようが、気負わずにすむ話し相手を求めていたのだ。
一年と半年前、エロゲを俺に見つけられた桐乃が、真夜中に人生相談を持ちかけてきたように。
ちょっと悲しいが、それが真実だろう。
これまでのらりくらりと俺の提案を避けてきたのも、
顧みれば、俺からこの言葉を引き出すための誘導だったように思えてくる。

「なあ、あやせ。こんなのはどうだ」

でもさ、たとい俺があやせに都合の良い男扱いされていたとして、それはそれでいいんだよ。
あやせが困っているのは事実だ。
ここで全身全霊を擲ってあやせを助けなきゃ、到底あやせの未来の夫は名乗れねえ。
俺は言った。

「俺がお前の家庭教師になってやるよ」

それから二十分後、俺とあやせは、綺麗に調えられた庭つきの一軒家の前に立っていた。
ここが俺たちの愛の巣だと言えればそれ以上に幸せなことはないが、現実はもちろんそうじゃない。

「ここに来るのも三度目か……」

これだけあやせに露骨に嫌われている俺が、
三度もあやせ家の框を踏むことを許されたと思うと、ちょっと感慨深いものがある。

「少し待っていて下さい。お母さんに説明してきますので」

そう言い残し、あやせは家の中に消えた。
『今日家に呼んだのは桐乃のお兄さんで、彼氏とかそんなんじゃないんだからねっ』と釘を刺しているあやせを想像する。
ねえな。110番通報しようとする母親をあやせが止める図ならまだあり得そうだが。

やがて玄関から手招きしてきたあやせに従い、家の中に入る。
いつ来ても思うが、あやせの家は本当に静かだ。生活音が全くない。

「あやせのお袋さんは?出かけてるのか?」
「執務室で仕事中です」

言ってあやせは、とんとんと階段を上っていく。
時間をかけて最初の一歩を踏み出し、そろそろと視線を上げると、光彩の失せた瞳に突き当たった。

「いやぁー最近膝が痛くてさあ――」
「早く上ってきて下さい」
「はい」

あやせの部屋に入ると、後から入ってきたあやせは、後ろ手でドアを閉めた。
明らかに俺に背中を見せまいとしてるよな。
んな警戒しなくても、いきなり後ろから襲いかかったりはしねえっての。
高坂京介は紳士なのさ……。

「お兄さん、両手を前に出して下さい」

はい、恒例行事きました。目の前には天使の笑顔。
でもな、もういい加減分かってるぜ?
三度も同じ罠に引っかかってたまるか。

俺は両腕を差し出した。
ガチャン、ガチャン。
間髪いれず、小気味よい金属音が鳴る。
ハハッ、てめえら、しかと目に焼き付けろ。
これが天使の魅力に取り憑かれた男の末路だ……。

「お兄さんも好きですね」
「人聞きの悪いことを言うな。
俺はあやせの手錠プレイに付き合ってやってるだけだ」
「自分が変態なのを、わたしのせいにするんですか?け、穢らわしい!」

それなら変態扱いしてる相手を最初から自分の部屋に上げるなよ、と言いたい。

「それよりも、何かに気がつきませんか?」

俺はざっと辺りを見渡す。
淡いブルーで統一された調度の位置に、主立った変更はない。
ぬいぐるみの数をざっと数えてみるが、前と同じだ。
ん……分かった、分かったぞ!
部屋の匂いだ!
以前は石鹸の香りが仄かに漂っているだけだったが、今日はフローラルな香りがする!
お香でも焚いたのか?

「ち、違います。わたしにそんな趣味はありません!」

改めて、くんくんと匂いを嗅いでみる。
憶測は確信に変わった。どんなに否定しても、俺の嗅覚は誤魔化せないぜ?
警察犬よろしく匂いの元を辿っていくと、額をびしりと叩かれた。

「お兄さんが勘違いしたのは、わたしの香水の匂いですっ。あとそれ以上近寄ったら叫びますよ」

なんだ、香水か。
今時の女子中学生は、学校に行くだけでも体に香水吹っ掛けるのが当たり前なんだよな。
桐乃は四六時中香水の匂いぷんぷんさせてるから、これまで特に意識したことは無かったが。

「で?」
「……?」
「俺に気づいてもらいたかったことって、何だよ?」
「本当に鈍いんですね、お兄さんは」

え、なんなのこの反応。
もしや、もしかして、もしかすると……マジで香水に気づいて欲しかったわけ?
なんだよ、お兄さん照れちゃうなー。同時にちょっと罪悪感。
あやせの積極的な好意の表現に、もっと早く気づいてあげられなくてごめんな?

「鎖の長さです」

は?

「だから、鎖の長さですってば」

腕を横に広げてみて、合点がいった。
俺の両手首に取り付けられた鉄の輪、それらを繋ぐ鉄の鎖が、以前よりも若干長くなっている。

あやせは精緻な顔に大輪の花を咲かせて、

「ふふっ、調節したんです。
結構大変だったんですよ?
自分の手に試作品をはめて、可動域を計算したりして……」

その情熱には怖れ入るが、何のために鎖の長さを変えたんだ?

「お兄さんに最小限の自由を与えつつ、
もしもお兄さんが性欲に任せて変態行為に及んだ時は、
可及的速やかにブチ殺せるように決まってるじゃないですか♪」

相変わらず表情と言動が一致してねえ。
つかお前さあ、完全拘束用、半拘束用みたいに用途別に手錠揃えてんの?

「人聞きの悪いことを言わないでください。
わたしが普通の人に手錠を使ったりなんかしません。
これはお兄さん専用です」

余計たち悪いわ!

「と、とにかく。
それだけの余裕があれば、わたしに勉強を教えたり、
お兄さんが自分の勉強をする分には問題ありませんよね?」

これだけ動ければ、手錠の本来の意味は失われたも同然だがな。
ま、形が大事なんだろう。俺に手錠をかけて、自由を封じているという形が。

「問題ねえよ。
さて、と。そろそろ勉強始めねえか?」
「はい」

あやせが鞄の中身を取り出し、本棚を漁るのを、ぼうっと眺める。
壁時計のギミックが作動し、
文字盤の裏から現れた木彫りの小鳥が、可愛らしいメロディーと共に五時を告げた。
最初の予定では、この時間に俺はあやせは公園で会うことになっていたんだよな。

『俺が家庭教師になってやるよ』と俺が言うや否や、あやせは露骨に嫌そうな顔をした。
しかし!その反応は予想済みだった。
以後十数分にわたる俺の力説は、後世に語り継がれる名演説だったと言えよう。
その甲斐あって、俺はマイラブリーエンジェルに勉強を教えてあげられる権利を得ることができた。
公園からあやせの家までの会話で決まったことは、以下の通りだ。
家庭教師は、あやせの次の定期試験が終わるまで。
本職じゃない俺にできるのは、精々あやせが躓いた演習問題の解説ぐらい。
あやせが順調に問題を解いて暇な時間は、自分の受験勉強をする。
モデル活動はとりあえず継続して、家庭教師の時間は、あやせの都合に合わせる……etc。

「これが教科書と、参考書全部です」

ふと目線を水平に戻すと、面前に壁ができていた。
というのは流石に大袈裟な表現だが……なんだこの量!?
どう見ても異常だろ!?
いつから俺の母校は詰め込み教育上等の英才養成学校になったんだ!?

「ほとんどが参考書です。
お母さんがことある事に買ってくるので……こんなに増えちゃったんです」

さすがあやせママ。
参考書代もノート代も小遣いで賄わさせる俺のお袋とは格が違った。
でもお袋、桐乃に雑誌頼まれたときは、買い物ついでに買ってきてやるんだよな。
そんでもって、桐乃が代金を徴収されているところを、俺はついぞ見たことがない。
っと、話が脱線しちまった。

「教科書は?」
「こっちです」

俺は一先ず参考書の類を脇にどけ、
学校指定の教科書と問題集を、机の上に教科別に平積みすることにした。
現国、化学、政経……じゃなくて……国語、理科、社会……ね。

「なにニヤニヤしてるんですか?」
「なんでもねえよ。……こんなもんか。
単刀直入に聞くが、この中であやせが苦手な教科はなんだ?」
「数学と、理科です」
「強いてどちらかを選ぶとしたら?」
「どっちも同じくらい大嫌いです。甲乙つけられません」
「そうかい。じゃ、得意な教科は?」
「国語と、英語でしょうか……この二つは、
授業を聞いているだけで、すっと頭の中に先生の言っていることが入ってくるんです」
「……典型的な文系だな」

あやせはコクリと頷き、前回の定期試験の点数を口にする。
文系教科と理数系教科の点数には、確かに大きな隔たりがあった。

「理科と数学が問題だな。
でも逆に言えば、この二つをどうにかすりゃ、あやせの成績はぐっと良くなるってことだ」
「簡単に言ってくれますね」

あれ、なんで励ましたつもりなのに俺睨まれてるの?
あやせは目を伏せ、沈んだ声で言った。

「わたしだって苦手意識を無くそうと、色々努力はしたんです。
でも、一度嫌いになったものを、もう一度好きになるのって、難しいじゃないですか」

苦手教科の克服を一般論に拡大されても困る。俺は反感を覚悟で言った。

「そりゃ方法に問題があったんじゃねえの?」
「………わ、わたしの勉強方法が馬鹿で愚かで間抜けだったと……そう言いたいわけですね!?」
「いやそこまで言ってねえよ!?」

それに実際そうだったから今あやせさんが困ってらっしゃるわけですよね!?
とにかく、これでどこに重点おけばいいのかはっきりした。
国語や英語、実技教科等はあやせの独学に任せるとして、俺が監督すべきは理科と数学。
決まりだな。そうと決まればお次は、

「試験日程と、大まかな範囲を教えてくれ……」
「えっと、次の試験は、今日からちょうど一ヶ月後で……」

闇雲に勉強しても仕方ない。
真の高得点は、緻密な勉強計画と確かな勉強量の二つがあって、初めて実現できるのだ。
それから日が暮れるまで、俺とあやせは今後の勉強方法について話しあった。

家に帰ると、若干七時を回っていた。
流石に徒歩で往復するのはキツイな。
これからは高校から直であやせの家に行かず、
いったん家に帰ってから、自転車で通うのがベターだろう。
リビングに通じるドアからは、温かい光が漏れていた。

「遅いぞ、京介。
遅れるなら、きちんと連絡を入れろ」
「すんません。忘れてました」

親父殿に頭を下げて、自分の席に座る。
この家では夕方の六時半までに在宅が認められていない、もしくは連絡を入れていなければ、
外食で済ませてくると見なされ、そいつの分のおかずは用意されない仕組みになっている。
つまり夕食に遅れることを伝え忘れ、ノコノコ帰ってきたときは、色彩に欠けた侘びしい食事を余儀なくされるのだが……。
なぜか俺の席には、ほかほかのご飯と味噌汁、その他おかず各種が用意されていた。
おかしくね?いや、みんな平然と飯食ってるけどさ。

「京介、後で桐乃にお礼言いなさいよー?」

ふいにお袋が言った。

「へ?なんで?」
「ちょっと、おひゃあひゃん!?」口にご飯を詰め込んだまま喋る桐乃と、
「桐乃、ものを喋るときは、口の中を空にしてからにしろ」それを窘める親父。
「あたしは京介が外で済ませてくると思って、京介の分は用意するつもりなかったんだけどねえ、
桐乃があんたが外食するなんてあり得ないって、うるさくて。
それもそうだと思って、京介の分も作ることにしたのよ」

結果的にその予想は大当たりで、俺は温かい夕食にありつけるから満足だけどよ……。
ちょっとくらい俺の社交性に賭けてくれてもよくね?

俺は複雑な心境で箸と茶碗を取り――おっと、その前に。

「ありがとな、桐乃」
「別に。材料が余るのが嫌だっただけだし」
「これ、桐乃が作ったのか?」
「お、お母さんが作るのを手伝っただけ!
今日は学校が終わるのが早かったから」

そーいやあやせも似たようなこと言ってたっけな。
つか、お袋の料理手伝ったって、実質お前が作ったようなもんじゃん?
どれどれ。俺は箸をおかずのひとつ――サーモンハラスの和風カルパッチョ風――に伸ばし、賞味する。

「うめえ!」
「馬鹿じゃん?
あたしが作ったんだよ?んなの当たり前でしょ」

チッ。素直じゃねえなあ。
珍しく誉めてやってんだから素直に『ありがとう』とか『嬉しい』とか言えや。

桐乃は顔を隠すように椀を傾け、ご飯をかきこむと、

「ごちそうさま」

さっさとリビングを出て行った。
ったく。兄貴の立場として、こういうときはなんて言うのが正解なんだろうな?
飯を用意してくれたことに感謝して、料理を食べて、その味を誉めた。
この一連の流れのどこに、桐乃の奴を不機嫌にさせる要因があったんだよ。
もっと語彙を捻った誉め言葉だったらよかったのか?


飯を食い終わり、早めの風呂に入った俺は、
桐乃が風呂から上がったタイミングを見計らって、桐乃の部屋のドアを叩いた。

「いるか?」
「…………」

予兆のない静寂を破り破竹の勢いで開け放たれるドアにはもう慣れたもので、

「何?……シスカリやりにきたの?」
「ちげーよ。つーか俺がここにいるの分かってんのにドアに力こめんなって」
「あんたがそっちから押してくるからでしょ!?」
「お前がいつも俺にぶつける気で開けてくるから警戒してんだよ!」
「……入って」

桐乃の部屋に入ると、改めてあやせの部屋との違いを痛感させられる。

「何の用?」
「桐乃が使ってる数学と理科の教科書を貸してくれないか。
一時間かそこらで返すからさ……、いいだろ?」

「なんで?」
「なんでって……なんだっていいだろ、別に」
「やだ。あんたに貸したら、何されるかわかんないもん。
だってあんた……重度のシスコンだし?」

妹の教科書借りて変態行為に及べたらそいつは相当の上級者だよ!
ちなみに俺はシスコンじゃねえ!
色々と都合がいいからそういうことにしてるだけだ!

「俺が教科書を借りたいのは……その……受験勉強に必要だからだよ」
「自分の教科書見れば?
中学生の教科書見てもしょうがないじゃん。
言ってることの意味わかんないですケド」
「基本的な公理が思い出せなくて、しかもそいつが教科書に載ってなくて困ってんの」

己の舌先三寸に感動したね。
桐乃を騙すことに罪悪感がないでもないが、これもあやせのためだ。

「で、貸してくれるのか?貸してくれないのか?」
「公理忘れるとか、健忘症?
……いいよ。貸してあげる。ちょっとそこに座って待ってて」

桐乃が指さしたのは床でも座布団でもクッションでもない、ベッドの上だった。
一年と半年前に比べりゃ、随分な好待遇だよな。

何気なく机の上に目をやると、案の定、桐乃はアブノーマルな趣味に没頭していたようで、
ノートPCの画面には可愛い妹たちのCG画像が表示されている。

「飽きねーな、お前も」
「なんか言った?」
「いんや」
「あーもー……どこやったかなー……」

教科書探しは難航しているようだ。
手持ち無沙汰になった俺は、もう一度PCの画面を見て、ふたつのことに気がついた。
ひとつ。俺はこの妹ゲーを、かなり前に桐乃に渡され、コンプリートさせられている。
『絶対泣けるから!』という桐乃の太鼓判の通り、一週目のエンディング、
妹との別れのシーンでは、不覚にも涙したことを覚えている。
そしてもうひとつ、このゲームでは主人公の名前を自由に設定できるので、
俺がプレイしていたときは、まあ一応、没入感を味わうために、
ゲームの中の妹たちには『京介お兄ちゃん!』と呼ばせていたのだが……、
今現在、目の前に表示されているテキストに「いっしょにあそぼ!京介お兄ちゃん!」という文字が躍っているのはどういう理屈だ?

「ふー、あったあった!
あたしくらいのレベルになるとぉ、
教科書よりも参考書重視だからー、ついどこに直したか忘れちゃうんだよねー」

嬉々とした表情で「はいっ!」と教科書二冊を差し出してきた桐乃は、
俺の目線の先と、俺の表情を交互に見遣り、

「………ッ」

バンッ、と勢いよくノートPCの天板を閉じる。
おいおい、もっと優しく閉めてやれよ。壊れるぞ。

「……見た?」
「ああ、見たよ。
お前にしては珍しく古いゲームやってると思ったら、なんで俺のセーブデータで遊んでんだ?」
「そ、それは……急にこのゲームのエンディングが見たくなったから!
いちいち最初からセーブデータ作るのめんどいし、仕方なくあんたのデータ使っただけ!
別にいいでしょ?それとも、あたしにセーブデータ使われたら、何か問題あるわけ?」

大ありじゃボケ!
ログ遡ったら、俺が二次元の妹たちとどんな風に愛を育んで来たかお前に丸わかりじゃねえか!
ある日突然『あの子にあんなことして喜んでたんだ~?』なんて言われたら羞恥で悶死するわ!

「とにかく、俺のデータを使うのは禁止な。
つうかお前さ、俺にゲーム貸す前に、セーブデータのバックアップ取ってあるって言ってたよな?
それ使えよ」
「だから、いちいちセーブデータ移動させるのめんどくさいって言ってんじゃん!」
「恥ずかしいんだよ。お前だって自分のセーブデータでログ見られたら嫌だろうが!」
「……うっさい!これ以上グチグチ言うんなら、教科書貸さないから!」

桐乃は教科書を抱きしめる。
こうなると俺は折れるしかない。兄貴の威厳もへったくれもねえな。

自室のベッドに寝っ転がりたい誘惑に抗い、文机に着く。
一悶着あったものの、なんとか桐乃から教科書を借りることができた。
いざ開いてみると、大きなフォント、分かりやすい文章、まさに中学生向けといった内容に、頬が緩む。
家庭教師をしたことのあるやつなら分かるだろうが、
後になって振り返る中学生レベルの問題は、欠伸が出るほど簡単だ。

「相似に……二次方程式ね……懐かしいな」

あやせに教えてもらった試験範囲と教科書を照らし合わせ、
これから一ヶ月で最も効率よく、あやせの頭に数学と理科の知識をインプットする計画を立てる。
さすがに一週間でこれだけ進むとあやせたん困っちゃうかな?
いやでも俺が手取り足取り教えてあげれば、あやせたんなら……。
ノッてくると楽しいもので、教科書と睨めっこするのが全然苦にならない。
こうして夜は更けていった。



明日リアルで試験あるから今日は書けても9時くらいまでだわ

さてやって参りました家庭教師二日目。
前回の教訓を生かし自転車であやせ家を訪問した俺は、
例によって森閑な廊下を歩いて階段を上り、
あやせのお部屋に足を踏み入れたところで罪人の証を装着した。

「じゃ、まずは数学の教科書の、72ページを開いてくれるか」
「はい」

お互い恒例行事にコメントせずに、勉強モードに入る。
そう、これが俺とあやせの当たり前の日常――って冷静に考えたら嫌だよそんな日常認めたくねえ。

「どうしたんですか?」
「なんでもねえよ。開けたか?
したらさ、そこに公式が載ってるだろ?
その公式見ながら、次のページの練習問題を解いていってくれ。
わかんなとこがあったら、すぐに言ってくれればいいから」
「……はい」

殊勝な態度で頷き、ペンを片手に問題に取りかかるあやせ。
その対面で、俺は大学入試の対策本を広げ、自分に課したノルマに着手する。
それから10分経ち、20分経ち……。
時折視線を転じて様子を伺っていた俺の思いやりも虚しく、あやせは黙々と問題を解き続けていた。
なんだ。意外と自分一人の力で、勉強できてるじゃんか。
そんな感想を抱いたのも束の間、ちら、とこちらを盗み見たあやせと目が合う。

「どうだ、順調か?いまんところ、何問解けた?」
「……問題の2番が難しいです」

ははーん、2番ね。確かに昨日見た感じじゃ、章末問題の大問2は捻りがきいてたっけな。
あやせが詰まるんじゃないかと思って、予め解説まで考えておいたポイントだ。

「ああ、そこはな……あれ、あやせ、ページ間違ってねえか?」

あやせはきょとんとした顔で言った。

「えっ、このページで合ってますよ?
わたしが分からなかったのは、この、練習問題3のかっこ2なんですけど……」

ああ、そっちの2ね。
オーケー、謝るよ。初っぱなからあやせを放置した俺が悪かったよ。
でもさあ、お兄さんさあ、もう少し早くSOSのサイン出して欲しかったなあ。

「あともう少しで閃きそうだったんです。
ほら、数学はインスピレーションが大事って言うじゃないですか?」

それは大学数学の証明とかでの話だよ!
中学数学なんて公式の応用で式作って値放り込むだけじゃねえか!……とは言わない。
俺も中学生の時分は、数学が大の苦手だったんだよな。
そっから麻奈美につきっきりで教えてもらって、なんとか今の高校に入れたんだ、あやせのことは笑えねえよ。
俺は言った。

「なあ、体近づけてもいいか?……睨むなよ、教科書を見ながら教えるためだ。
対面からじゃ、色々とやりにくいだろ」
「そ、そういうことなら……」

承諾を得たところで、距離を詰める。
あんまり最初から飛ばしすぎると警戒されるからな、ふっ、今日はこんなところか。
俺の右肩とあやせの左肩までの距離は目測で40センチ。
間違っても触れあうことはない。

「くそっ、いつか『偶然手と手が触れあって熱く見つめ合う二人』イベント起こす……!」
「心の声がだだ漏れですよ、お兄さん。 
あとちょっとずつ体を寄せてこないで下さい、気持ち悪いので」

バレるの早っ!?
あやせさんは大層素晴らしい観察眼をお持ちなんですね!



あやせの隣で真面目に勉強を教え始めてから、早一時間。
今は休憩時間で、あやせは
『お茶とお茶請けを持ってきます。下着を漁ったりしたら、どうなるか言わなくてもわかりますよね?』
と言い残し一階に降りていった。
部屋に一人残されたことは以前にもあるが、
ベッドに繋がれていたあのときと違って、今の俺は自由の身だ。

あやせの箪笥を漁ろう。
あやせの去り際の言葉を冷静に斟酌してみれば、あれがあやせなりの照れ隠しであったことは明白だった。
わざわざ『下着を漁ったら~』と口に出して言う辺り、
あやせは心のどこかで、俺に下着を漁られることを望んでいるに違いない。
今日の俺は一段と冴えてるね。

「まだまだ上がって来ないよな?」

俺は抜き足差し足ドアに近づき、耳を当てて廊下の様子を伺った。
足音、ナシ。漁って、ヨシ。
一段目、いっきまーす!

「ふむ……」

現れたのは、色別に整頓されたTシャツやカットソー。
ふんわりと漂う石鹸の香りがたまらねえ。
だが、俺の探し求める黄金郷(エルドラド)はここじゃない。
続く二段目。

「はぁ……」

スキニーやフレアスカート、デニムのホットパンツの数々に嘆息せざるを得ない。
ボトムスコーナーに用はねえ。
三段目。

「ここも違うか……」

ワンピースやオールインワンといった上下一体型の服が主に収納されている。
が、やはりここも理想郷(ユートピア)と呼ぶには値しない。
そして――ついにやってきた最終段。

「はぁ……はぁ……」

体の中で熾火が燃えているみたいに熱い。
ごくり。生唾を飲み込み、取っ手に手をかける。
引け、さすれば開かれん。俺は汗で濡れた指先に力を込め――。

「お兄さん?」
「ひっ」

心臓止まるかと思ったわ!
耳のすぐ近くで聞こえたように感じたのは、実は俺の錯覚で、

「両手がふさがっているので、ドアを開けてもらえませんか?」
「あ、ああ!」

部屋に入ってきたあやせはまず盆をテーブルに置き、
次に直立不動の俺を見つめ、怪訝な顔になって言った。

「お兄さん、わたしがいない間に何やってたんですか?」
「な、何もしてねえけど?
俺はあやせが出て行ってからずっと、そこで正座して待ってたぜ?」
「じゃあ、指紋を採取しても問題ありませんよね」
「嘘だろ!?なんで中学生のあやせが指紋採取キット持ってんだよ!?」
「冗談ですよ。そんなに驚かれたら、困ります。あと顔が近いです」

私用の手錠持ってるお前が言ったら本気に聞こえるんだよ!
指紋採られたら一発で箪笥漁ってたことバレるから、一瞬マジで焦ったじゃねえか。

「慌て方が怪しいですけど……、今回は不問にします。
疑わしきは罰せずとも言いますし」

あやせは澄まし顔で座布団に座り、目線で着席を促した。
盆の上には、ケーキと紅茶が二つずつ。
まあ、確かに『お茶とお茶請け』であることには変わりないよな。

「お兄さんのお好きな方をどうぞ」
「いや、俺はどっちでもいいから、あやせが好きな方を選べよ」
「遠慮しなくていいですよ?」
「遠慮なんかしてねえって。
むしろあやせが俺に気を遣ってんじゃねえか?」
「遣ってません。もうっ、早く選んで下さい。優柔不断な男の人は嫌われますよ?」
「んー……」

でも真面目な話、本当にどっちでもいいんだよな。
小さい頃から麻奈美家の和菓子の試作品をたらふく食べてきたおかげで、
和菓子に関してはうるさい俺の味蕾も、洋菓子の味にはとんと鈍く、なんでも美味く感じるのだ。
と、俺は妙案を思いついた。

「あやせ!食べあいっこしよう!」
「わたしはこのモンブランを頂きますね」

決断早っ!

「……じゃあ俺はこっちのチーズケーキをもらうわ」

フォークで一口サイズに切り分け、口に運ぶ。
しっかりと焼き上げられたサクサクの生地に歯を立てると、
レアチーズケーキのようにマイルドでクリーミーな味わいが口蓋いっぱいに広がった。
普通にうめえ。脳味噌を酷使した後は糖分に限るぜ。
あやせ、そっちのモンブランも美味えんじゃねえか……そう言おうとしてあやせの方を見ると、紅茶ばかり飲んでいる。

「……ダイエットでもしてるのか?」

ダイエットと口にした瞬間、あやせは血相を変えて、

「だ、ダイエットなんてしてません!
あれですか、お兄さんはわたしが太ってるって言いたいんですか!?」
「言ってねえよ一言も!
あやせの体型で太ってるほうなら、世の中の中学生の九十九パーが肥満児じゃねーか!」
「お兄さん、まさか桐乃にもそんなこと言ってませんよね?」

『体が太ってる』と言ったことはないが、だいぶ前に『丸顔』と言ったら怒り狂ってたな、あいつ。

「モデルは体型が命なんです。
周りの目以上に、わたしたちは体型維持に気を使ってるんですからね……。
次に『太ってる』なんて言ったら問答無用で――しますよ?」
「だからんなこと言ってねえって!あやせのプロポーションは最高だよ!マジで!」
「きゃっ………そんな、いきなり誉めないでください……気持ち悪いです」

なんでそうなる!?
普通嬉しいだろ、面と向かって男に容姿誉められたらさあ!?

あやせは躊躇う様子を見せつつも、そっとフォークを動かす。
最初の一口で自制心が壊れたんだろう。
あやせは幸せそうに顔を綻ばせ、唇の端についたモンブランクリームを舐めて、

「お兄さんが誰かに勉強を教えるのは、本当にわたしが初めてなんですか?」
「そうだけど、なんで?」
「お兄さんの教え方が、なんだか手慣れているように見えたので……」

あやせたん、それはね!
いざ教えるときに言葉に詰まって、
あやせたんにカッコ悪いところを見せないよう、入念に解説を考えてきているからだよ?
……と言えば気持ち悪がられるのは自明の理。

「普段から麻奈美に勉強教えてもらってて、
あいつの教え方が身に染みついてるから、そのおかげかもな?」

適当に茶を濁す。

「お兄さんはお姉さんと、どれくらいの頻度で一緒に勉強しているんですか?」
「週に四日くらいかな」
「お兄さんとお姉さんが子供の頃から、ずっとですか?」
「まさか。高校に入ってから、つい最近までは、週末の都合が良い日に図書館で勉強するくらいだったよ」
「仲が良いんですね」
「………まあな」

否定はしない。
あやせは紅茶を一口飲んで言った。

「……付き合うことを考えたことは、一度もないんですか?」
「へ?誰と?」
「お姉さん……麻奈美さんとです」

はぁ。溜息が出る。
まったくどいつもこいつも、どうして俺と麻奈美の関係を色眼鏡で見るのかね?

「あいつは、俺の幼馴染みだ。
それ以上でもそれ以下でもねえよ」

夏の一件は関係なく、俺が麻奈美と付き合う事はあり得ない……と思う。
あやせは安堵と落胆が同居したような、複雑な色を瞳に宿した。
なんとなく気まずい雰囲気を払うように俺は言った。

「そーいうお前はいねえのか?彼氏」
「わっ、わたしですか?わたしは――」
「いるわけねえよな。つうかいたらぶっ飛ばす。あやせたんは渡さねえ」
「か、勝手に決めつけないで下さいっ!
というか、わたしはいつ、どんな経緯でお兄さんのものになったんですか!?」
「出会ったときに俺がそう決めた。一目惚れでした!」
「――ッ!」

あやせは片手で右耳を塞ぎ、もう片方の手でフォークの切っ先を向けてくる。
怒りと羞恥で顔が真っ赤だ。悪い、悪かったよ!ちょっと図に乗りすぎた!

「もう……お母さんに今の会話を聞かれたら、確実に通報されてますよ?
……確かにお兄さんの言うとおり、わたしに彼氏はいません。
そもそも、もしも彼氏がいたら、お兄さんを家に上げるわけがないじゃないですか」
「でも、お前学校で男子から人気あるだろ?毎日のように告られてんじゃねえか?」

俺が同級生なら絶対そうしてるね。

「それは……まあ、お付き合いの申し込みをされたことは、たくさんありますけど……全部丁重に断りました。
モデル活動で忙しいし、桐乃と……友達と遊ぶ時間が減るのが嫌だったし……。
それに何より、クラスの男の子って、子供っぽいところがあるじゃないですか?」

子供っぽいも何も、子供じゃねえか!
ああ、世の男子中学生たちに幸あれ。
思春期における精神的な成長は、なぜだか知らんが、女の子の方がずっと早いんだよなあ。

桐乃もあやせと似たようなこと言ってたっけ。
確か『三歳以上年上の男じゃないと、恋愛対象にならない』……だったか?
ま、年上の男に憧れを持つのは止めねえけどさ、

「悪い男に引っかからねえようにしろよな」

何気なく発した一言に、あやせは翠眉の根を寄せて、きゅっと下唇を噛む。
な、何があやせ様のお気に召さなかったんでしょうか?

「なんでもありません!」

あやせはつんとそっぽを向いて、特大のマロンを口に運んだ。


時間は飛んで日曜日。
月曜、水曜と続いた家庭教師も、
あやせと俺の都合が合わなかったこともあって三日間の休みを挟み、今日は三日目になる。
約束の時間は昼の2時、今は朝の8時半。
途中で抜けるのも不自然なので、今日はすっぱり、図書館に行く約束を断った。その時の会話は、以下の通りだ。

『きょうちゃん、最近わたしに冷たいよう。
わ、わたし、なにかきょうちゃんに嫌われるようなこと、したかなあ?』
『してねーよ。ついでに冷たくしてるつもりもねえっての』
『だってだってー、学校が早く終わった日は、ひとりで帰っちゃうし、今日だって、丸一日用事があるんでしょ?
あっ、もしかしてきょうちゃん……、受験勉強が嫌いになっちゃったの?』
『だあっ、麻奈実は深読みしすぎなんだよ!
俺は麻奈実が嫌いになったわけでも、勉強が嫌いになったわけでもねえ!』
『本当?』
『ああ。なあ麻奈実、一ヶ月だけ、受験勉強を疎かにすんの、見逃してくんねえかな。
一ヶ月したら、元の俺に戻るからよ』

『この時期の一ヶ月って、大きいよ?』
『んなことは分かってる』
『うん……分かった。いいよ、見逃してあげる。
その代わり、一ヶ月したら、みっちり勉強しますからね?』
『はい、麻奈実先生』

携帯を放り投げ、服を着替える。
さてこの午前中を、何に使おうか?

大人しく勉強するか。
黒猫から『部活に顔を出してみてはどう?たまには息抜きも必要よ』と労いメールが来ていたが、我慢我慢。
麦茶を飲みに降りると桐乃がソファで寝っ転がり、雑誌を読んでいたが、「おはよう」の挨拶だけに留め、さっさと二階に戻る。
買い物の荷物持ちの約束を思い出されてたら危ないところだった。
しばらくは桐乃のお出かけに付き合うヒマはねえからな。



「聞いて驚け。今日はあやせにプレゼントがあるんだ」

小箱を手渡すと、あやせはパァッと顔を輝かせ、
「わぁっ、嬉しいっ。お兄さん、大好き!」と胸に飛び込んで来た。俺の妄想の中で。

「プレゼント……お兄さんが、わたしに?」

うっわ、現実世界のあやせたん、めちゃめちゃ警戒してる。

「何が入っているのか教えて下さい」
「……ただの単語カードだよ。英語の。
あやせ、英語は成績良いわりに、語彙の部分で点落としてたみたいだったからさ。
これでちょっと空いた時間にでも単語覚えれば、百点取れるんじゃねえ?」
「わざわざ、今回の範囲の単語を、全部書いてきてくれたんですか……?」
「作り慣れてるから、大して苦労してねえよ。
それよりもさあ、お兄さん傷ついちゃったなー。
純粋な好意の塊を、あやせに危険物扱いされてさー」

「す、すみませんでした。
わたしはお兄さんのことだから、てっきり……変態的な何かかと……」

こんなちっこい箱に入る『変態的な何か』って何だよ!?
逆に俺が教えて欲しいわ!
あやせはぱらぱらとカードを捲り、書かれた英単語を呟く。

「これなら、撮影の移動中にも使えそう……。
そういえば、桐乃もこういうカードを使っているのを見たことがあります」

そりゃそうだ。
俺はこの前桐乃に教えてもらった方法を、あやせにも実践してもらおうとしているだけなんだからな。
勉強に関する時間の使い方には、二種類ある。
ひとつ。勉強する時間をここからここまでとビシッと定め、その間だけ真剣に勉強し、他の時間は頭を休ませる。
ひとつ。特に勉強する時間を定めず、小さな空き時間を利用してコンスタントに知識を吸収していく。
俺は前者で、桐乃は後者のタイプだ。
もちろん最良は両方のハイブリッドだが、できる奴はそう多くない。

「………ます」
「ん?」

あやせは単語カードを両手で包み、仄かに顔を赤らめながら言った。

「ありがとうございます。大切に使います」

きた!あやせたんからのお礼、きた!
どんなに気持ち悪がっている相手でも、善意には平等な誠意で応えるあやせたんマジ天使。

「またプレゼント用意してくるからな?」
「ふふっ、期待しないで待ってます。じゃあ、手錠をかけますね?」

ガチャガチャン。
ですよね。ちょっと良い雰囲気になって油断した途端にこれだよ。
しかも回を重ねる事に手際が良くなっていってる気がするぜ。
俺は手首から伝わるひんやりした感触を忘れることにして、言った。

「それじゃ、宿題のチェックから始めるか」

休日の午後。宿題を添削していると、
過ごしやすい気候も相まって眠気がやってくるが、なんとか堪える。
他に受験生がたくさんいる、図書館のぴんと張り詰めた空気の中と違って、
あやせの部屋には俺とあやせだけだから、気持ちが緩んでるのかね?

「ええと……大気圧は1024hPaだから……」

右隣で理科の練習問題と格闘しているあやせ。
さっきふと気づいたことを言おうと思っていたんだが、真剣な横顔に、邪魔をする気が失せた。
本当、何かに一生懸命になってる女の子は、いくら眺めていても飽きがこないよな。
それがとびきりの美少女なら、なおさらさ。

添削が終わり、俺が添削する間あやせが解いていた問題で分からなかった部分の解説をしたところで、小休止を挟むことにする。
人間の集中力は連続五十分が限界らしく、十分の休憩を挟むと、再び集中力が持続できるようになる――とは麻奈実の弁。
今日は時間に余裕があることもあって、その教えを実践することにしたのだ。
俺は言った。

「今日の午前中は撮影があったのか?」

あやせはきょとんとした顔で、首を横に振る。

「じゃあ、友達とどこかに遊びに行ったのか?」
「お兄さん、さっきから何を言っているんですか。
わたしは朝からずっと、家にいましたけど……?」

「じゃあさ、なんで化粧してんの?服も部屋着じゃねえみたいだしさ?」
「えっ……」

頬を押さえ、慄然とした表情になってから、俯くあやせ。
質問してから、納得する。

「ああ、あやせも桐乃と同じタイプなのか?」
「き、桐乃と同じって、どういう意味ですか?」
「あいつも家にいるときは、なんでか化粧を欠かさねえんだよ。
家族にカッコつけても仕方ねえと思うんだけどなー」

誰にも見られていなくても、無防備に素顔を晒したくない。大人の女性を気取りたい。
そんな、男には理解できない心理が年頃の女(麻奈実は例外)にはあるのだろうか。

「ま、俺は着飾ってるあやせが見られて嬉しいけどな?眼福眼福」
「し、心外ですっ。
わたしはいつ外出の用ができても大丈夫なように、こうしているだけですから!
それよりも、桐乃の話は本当ですか?
本当はお兄さんが桐乃に、家でも大人っぽい格好をするように強制しているんじゃないですか!?」

どうして俺が責められる?
相変わらず論理の飛躍が甚だしいな!?

「可哀想な桐乃……お兄さんが変態なばかりに、家の中でも心休まる時を過ごせないなんて……」

あやせさーん、脳内妄想はそこまでにしてくださいねー?

「俺は何もあいつに強制してねえっての。
全部あいつが勝手にやってることだ」
「か、仮にそうだとしても!
お兄さんが桐乃を性的な目で見ている鬼畜なことに変わりはないでしょう?」

変わりあるわボケ!

「と、とにかく、お兄さんを興奮させるような服装は慎むよう、桐乃にきちんと言い聞かせますから!
あ……あと、わたしをいやらしい目で見たりしたら、今すぐその目を潰しますよ?」
「ま、待て、落ち着けあやせ。深呼吸して右手のシャーペンを離せ!」

その後、「あんまり騒ぐとあやせのお袋さんが飛んでくるぞ」という言葉を盾に、
なんとかあやせを落ち着けることができたが……どっと疲れた。
休憩時間なのに全然休憩できてねえじゃん。
一方あやせは清々しい笑顔で、

「はぁっ……お兄さんを罵ったら、なんだか頭がスッキリしました♪」

そりゃよかったな。お前にとっての気分転換は俺にとっての死活問題だよ。

数学と理科を五十分ずつかけて勉強したところで、立ち上がって伸びをする。
窓の外に視線をやると、空は夕陽の橙から階調をつけて、藍と紺に及んでいた。
秋の日は釣瓶落とし、か。
小学生の頃は、日が沈む早さがどうして変わるのか、不思議で仕方なかったっけな。

「そろそろ帰るわ」
「あっ、もうこんな時間。
でも、あと一時間勉強しませんか?
この単元だけでも終わらせておきたいんです」
「急ぎ足で進みすぎても、後で躓いたときに怪我するぞ?
今日一日で十分すぎるほど進めたし、そのやる気は復習に回してくれ」
「分かりました」

ちょっと不服げに頬に空気を集めるあやせ。可愛い。
しっかし、お兄さん嬉しいよ。
あやせがこんなにやる気を出してくれてさ。
なんつーか、教え子が一生懸命だと、教える側も自然に一生懸命になっちまうよなあ。
俺は充実した気分であやせ家の門をくぐり、往来に出た。
自転車に跨がり、ペダルに足をかける。

「…………ん?」

俺さあ、なんか途轍もなく大事なこと、忘れてねえ?
第六感が警鐘を鳴らしているが、肝心の違和感の正体が掴めない。
なんだ?このモヤモヤした感覚はなんなんだ?
くそっ、全然わかんねえ。俺は痺れを切らして漕ぎ出した。
が、50メートルも進まないうちに、背後からあやせの悲痛な叫び声が!

「お兄さんっ!止まって下さい!
本気でそのまま帰るつもりなんですかっ!?」

「どうしたんだ?」
「どうしたんだもこうしたんだもありませんっ。
とにかく、今すぐ戻ってきてくださいっ!」
「忘れ物か?」
「逆ですよっ!もうっ、お兄さんの馬鹿っ!」

西日の中、あやせがこっちに走ってくる。
風に靡く黒髪。林檎色の頬。幽かに潤んだ瞳。
え………なにこのシチュエーション………これってもしかすると……もしかしなくても……。

「お別れのチュー?」
「違いますっ。本気で言ってるならブチ殺しますよ!?
今すぐ両手を出して下さいっ!」
「お、おう」

ガチャチャン。
目にも止まらぬ早さで、あやせが鉄の輪を取り去る。
あ……ああ!手錠か!すっかり馴染んでたわ。

「馴染んでたですって……?け、穢らわしい!
不注意にも程がありますっ!
もしご近所の方に、わたしの家から手錠を付けたお兄さんが出て行くところを見られでもしていたら、
どんな悪評が流れていたか……想像するだけでも恐ろしいです」
「不注意って、あやせも部屋を出て行くとき何も言わなかったじゃねえか!
それにこういうことが起こることは、手錠はめたときに想定しとけよ!」
「それについてはわたしの落ち度です。
まさかお兄さんが手錠を体の一部と思えるほどの変態だと、見極めきれていなかったんですから」

うわーそんな冷静に変態って言われると傷つくなあ。
しかし俺が何の違和感も感じずにあやせの家を出てきてしまったことは紛れもない事実。
反論できる立場じゃねえ。
俺ってマジで奴隷願望あるのかな……なんか最近自分の性癖に自信が持てなくなってきたわ。

「とりあえず、帰るわ。あやせも家に戻れよ。
こんなところで突っ立って、誰かに見られたら元も子もないだろ。
それ、早くどっかに隠せ」

あやせはどこに鉄の輪を隠そうかと逡巡していたが、
手錠と長い鎖がデニムスカートのポケットに入るはずもなく、
苦肉の策として服の下に仕舞いこみ、上から手で押さえる。
思わぬところで、ラブリーマイエンジェルあやせたんのへそチラ画像ゲットだぜ!

「じゃあな」

物寂しくなった腕を回し、ペダルに足をかける。
今度こそさよならだ、と思ったそのとき、

「待って下さい、お兄さん。
ひとつ言い忘れていたことがありました」
「……なんだよ?」

まだ罵倒したりないとか桐乃みてえなこと言ったら、さすがの俺でも泣くぞ?
朱色に染まった町並みを背景に、深く頭を下げて、

「今日もお忙しいところ、家庭教師をしてくださって、ありがとうございました」

髪を耳にかけ、はにかむあやせ。
ああ、言い忘れてたことって、それのことね。
あやせと俺の家庭教師の、始まりの恒例行事が手錠をかけることなら、
終わりの恒例行事は、手錠を外すことと、勉強を教えたことに対する丁寧なお礼だと言える。

「おう。宿題忘れんなよ」

俺は軽く手をあげて、力強く自転車を漕ぎ出した。

それから二週間は、最初の一週間の焼き直しとも言える日々が続いた。
平日の放課後に2~3回、週末のどちらかに1回、都合週に3~4回の頻度で、俺はあやせ家を訪問した。
あやせの学力は――贔屓目で見ているからかもしれないが――回を重ねる事に、メキメキと上達していった。
またこれも休憩時間の閑話で分かったことだが、
理数系の科目の点数が目に見えて低下したのは、三年生の初め、学力診断テストでのことで、
実際二年生の三学期あたりまでは、あやせも成績上位陣に名を連ねていたそうだ。
つまり何が言いたいかというとだな、あやせは、やれば出来る子なんだよ。

そんなこんなでテスト四日前の土曜日。
あやせは事務所に嘆願して、
試験一週間前から撮影を休むことを許可してもらったようで、朝方届いたメールには、
『土曜日と日曜日、お兄さんの都合が良い方で家に来ていただけたら嬉しいです。 
わたしは両方とも家で勉強していますので』
とある。

「どうすっかなー」

俺はリビングのソファに寝っ転がり、朝のワイドショーを眺めながら溜息をついた。
正直な話、もうあやせに教えることってあんまねえんだよな。
範囲で分からないと言っていたところは粗方みっちり解説してやったし、
その解説もルーズリーフに纏めたものを、あやせの部屋のバインダーに綴じてあるので、
あやせが解法を忘れたときも、わざわざ俺が傍にいてやる必要が見当たらないのだ。

「あら桐乃、おはよう」
「うん……おはよー……お母さん」

視線をやれば、寝ぼけ眼を擦りながら、桐乃が朝食の席についたところだった。

「昨日は遅くまで起きてたんでしょう?早く寝ないと体に毒よー?」
「う、うん」

ハッ、声が上擦ってやがる。
夜更かしの原因がエロゲだとは口が裂けてもいえねえよな。
なんで俺がそんなことを知ってるかって?
昨日の夜中まで薄い壁越しに『カレンちゃんカワイー!』だの
『ああんそこまでやるのぉ?やばすぎィ』だの『BAD直行とかマジありえなくない?』だの、
聞きたくもねえ嬌声が聞こえてきたからだよクソが!

お袋はそれからしばらく桐乃の世話を焼いていたが、

「あたしちょっと隣に回覧板届けてくるわね。
京介、あんたいつまでもゴロゴロしてないで勉強しなさいよー?
あんたは桐乃と違ってあんまり頭が良くないんだから……」

ほっとけや!何この露骨な差別!
言われなくても9時になれば勉強始める気だったっつうの。

「へいへい」

戸が閉まる音がして、リビングに桐乃と二人きりになる。
TVもつまんねえし、とりあえずさっとシャワー浴びて、
そっから麻奈実と図書館で勉強するか、あやせの家に行くか考えるか。

「ねえ」
「ん?なんだよ」

ドアノブに手をかけたところで、桐乃に呼び止められた。

「……今日さあ、沙織と黒猫がウチ来るんだけど」
「へえ、あいつらが揃って遊びに来るなんて久しぶりだな」

お嬢様の沙織は何かと多忙でしかも家が遠く、
黒猫は夏の一件のせいだろうか、この家に来るのを少し躊躇っているきらいがあった。

桐乃は寝癖のついた茶髪を、指先でくるくる弄りながら、

「今日はお父さん、朝から夜まで帰ってこないし、お母さんも昼から出かけるでしょ?
それでね、ウチでマスケラの鑑賞会することになったの。
新版のマスケラが来期から始まる噂があって……その予習」
「ふーん」

桐乃も桐乃なりに、黒猫の趣味趣向を理解しようとしているんだろう。
ちょっと感心したよ。
昔は邪気眼全開アニメとか言って毛嫌いしてたのにな。

「まあ、鑑賞会すんのはいいけど、
前の星屑うぃっちメルル観た時みたいに、黒猫と喧嘩すんなよ?
今回は沙織も一緒だから、大丈夫だとは思うけどさ」

ドアノブを捻る。が、会話はそれで終わらなかった。

「あのさ、あんたも……その……一緒に観ない?」
「はぁ?」
「だ、だからっ!
せっかく大画面のテレビでマスケラ観られるチャンスじゃん!
あんたはこの前『漆黒』のコスプレして悦に入ってたけど、全然成りきれてなかったし、
ちょっとはアニメ観て仕草とか台詞とか勉強したら!?」

桐乃にここまで言わしめるほど、俺のコスプレは微妙だったのだろうか。
自分ではかなりいいセンいってると思ってたし、黒猫も悪くないと言ってくれたんだがなあ。
つか、マスケラまともに観てないお前が、
俺扮する『漆黒』にケチつけるのっておかしくね?

あやせの家に行こう。
いくら特に教えることがないと言っても、自宅で妹やその友達とアニメ観るよか、
あやせの傍で勉強を見てやる方がいいに決まってる。
それにあやせが質問してこない限りは、俺も自分の受験勉強に集中できるしな。

「いいよ、遠慮しとく」
「あっそ。あんた、今日はどっかでかけんの?」
「昼から図書館。それまでは家にいる」
「………」

桐乃は大人しく引き下がった。
まあ、最初から俺が鑑賞会に出席しようが欠席しようが、どうでもいいと思っていたんだろうさ。



昼時。ちょうど俺が遅めの昼飯を食べ終わった辺りで、チャイムが鳴った。

「おい桐乃、黒猫と沙織じゃねえか?」
「あんたが出てきて!」

TVの設定を変えたり、お菓子とジュースを準備したりと、忙しなく動き回っている桐乃。
しゃあねえなあ。
玄関の扉を開けると、身長180センチを超えるオタクファッション全開の沙織と、
ゴスロリ衣装を身に纏った夜の眷属――じゃねえ、黒猫が佇んでいた。

「京介氏!お久しぶりでござる!
拙者、京介氏と相見えることを楽しみにしていましたぞ!」

よう、沙織。お前は相変わらずだな。
まだ素顔を日常的にみんなに晒すのは、抵抗があるのか?

「………」

沙織は口をA(←こんなふう)にして俺を見つめる。
や、悪かったよ。ゆっくり慣らしていけばいいさ。

「こんにちわ、先輩」

言葉少なげに挨拶する黒猫。
右手には大きな紙袋がある。多分中には大量のDVDが入っているんだろう。

「マスケラの鑑賞会やるんだってな。それ、重かっただろ?」
「夜の眷属たるわたしにとって、こんなもの、大した重さではないわ。
今宵、あなたの妹はマスケラの深淵なる闇を垣間見ることになる――」

絶好調ですね、黒猫さんも。

「京介氏、きりりん氏はいずこに?」
「リビングで待ってるよ。上がってくれ」

玄関で靴を脱ぎ、俺は階段に足をかける。
そろそろ俺も出かける準備をしないとな。

「先輩?」
「……ん?」

振り返れば、なぜか黒猫はリビングに行かず、深紅の瞳で俺を見上げていた。

「あなたは鑑賞会に参加しないの?」
「昼から用事があるんだ。お前ら三人で楽しんでくれ」
「そう……残念だわ」

黒猫は俯く。垂れた前髪で両目が隠れ、一瞬、泣きぼくろが本物の黒い雫のように見えた。

「でもきっと……わたしと同じくらい、あなたの妹も残念がっているのでしょうね」

デジャビュ。
『好きよ……あなたの妹が、あなたのことを好きな気持ちに、負けないくらい』
黒猫は時折、自分の気持ちの強弱を、桐乃のそれを例に出して表現する。
俺と黒猫は、しばらくの間無言で、視線を通わせた。
思い出すのは、夏の日々。
約束の地で黒猫に告白され、夢中になって付き合い、夏の終わりと一緒に別れたこと……。

「瑠璃――」
「京介氏ー?黒猫氏ー?」

我に返る。俺は昂ぶる気持ちを抑えて言った。

「行けよ。沙織が呼んでるぜ」
「え、ええ、そうね」

黒猫は名残惜しげに下唇を噛み、足早にリビングに駆けていった。
踵を返して、自室に駆け込む。
なにやってんだろうな、俺。
意識しちまうのは仕方ないにしても、名前で呼びかけるなんてよ……。


「なあ、あやせ。ベッドに横になってもいいか?眠いんだよ」
「二度と目が覚められなくなりますけど、それでもいいならどうぞ」

予想通りあやせは至極順調に自習できていて、俺のセクハラに応じる余裕すらある。
宿題もほとんど答えと合ってたし、こりゃかなりの高得点が期待できそうだ。
俺はうんと伸びをして、両手を枕に、床に寝転がる。
ローアングルからのあやせたんも可愛い。

「………」

あやせはとっくに視線に気づいているが、
構うだけ時間の無駄だと判断したようだ、ほんのり耳を赤くさせながらも、黙々と問題を解いていく。
さて、お気づきの方もいるだろうが、俺は今、なんと手錠をはめられていない。
その事実をあやせから信頼された証拠だと喜びたいところだが……、

『お兄さんが変態行為に及ばない限りは自由を許すことにしました。
この前みたいに手錠をはめたまま帰られると、大変なことになりますから』

悲しいかな、あやせが世間体を守るための、苦渋の選択に過ぎない。
実は手錠をつけたままあやせの家を出たのは、あの日だけじゃないんだよね。
あれから三回は同じことをして、酷いときは手錠をつけたまま駅近くまで自転車を漕いだこともある。
あの時は近くに交番があったこともあって、冷や汗もんだったぜ。
見つかったら職質確定だからな。

でもさ。この三週間とちょっとの家庭教師で、
俺があやせの信頼を、全然勝ち得なかったかと言えばそうでもなくて、

「ふぅっ。この単元の演習問題は、全部できるようになりました。
あの……、お兄さんの参考書、少し読んでみてもいいですか?」
「いいけど?」
「あはは……何が書いてあるのか、全然分からないです」
「分かったら逆にすげえよ。
あやせも真面目に高校通って、真面目に授業受けてりゃ、いつかは理解できるようになるさ」
「この極座標って、何ですか?」
「ああ、それはな……」

俺は身を起こし、あやせの隣に体を寄せる。
ややもすれば肩が触れあいそうな距離だが、
あやせは『近寄らないで!変態!』と俺を突き飛ばすこともなく、興味津々に俺の概説を聞いていた。
それが俺としては嬉しくもあり、ほんのちょっぴり、寂しくもある。

「お兄さんは、明日もお暇ですか?」
「ん、なんで?」
「お兄さんの都合さえ良かったら、明日も家庭教師をしてもらえないでしょうか?」
「あやせはもう俺がいなくても大丈夫だと思うけどな。
応用問題もばっちりこなせるようになってるし、あとは予想問題を完璧にすりゃあ……」
「不安なんです」と真っ直ぐな瞳で訴えかけてくるあやせ。

本当は土日のどちからは麻奈実と図書館に行く予定だったんだが……。
ラブリーマイエンジェルの頼みを断れるか?まさかな。
ここで首を横に振る奴は、あやせに手錠をかけてもらう権利すらねえよ。

「いいぜ。明日も来るよ」
「本当ですか?ありがとうございます!」

あやせは顔を綻ばせ、両手を前で合わせて喜びを表現する。
その拍子に、肩が触れた。
今更ながら至近距離で隣り合っていることを意識したのか、あやせの顔は見る間に紅潮していく。
鉄拳来る?俺は両腕で顔面を覆ったが――衝撃はいつまでたっても訪れない。

「な、殴らねえの?」

あやせは頬を染めたまま、つんと唇を尖らせて、

「た、ただ肩が触れただけじゃないですか。
お兄さんはわたしのことを何だと思ってるんですか?」

いや、これまでの前科があるし、ねえ?

「……そんなに殴られたいなら、殴りますけど?」

「ごめんなさい殴らないでください」
「お兄さんのことは嫌いですけど……。
わたしに勉強を教えてくれていることには、すごく感謝しているんです。
だから軽度のセクハラには、見て見ぬふりをすることにしました。お兄さんのことは嫌いですけど」

そんなに嫌い嫌い言わなくてもいいじゃん!
「大事なことだから二回言いました」ってか!?

「軽度のセクハラって、どのあたりまではオーケーなんだ?」
「わ、わたしにそれを言わせる気ですか!?
そうですね……手を、握ったり……頭を撫でたりするのは……」

OK!?OKなのか!?

「アウトです」

アウトなのかよ!
つかそれセクハラでもなんでもなくね?親しい男女の健全なスキンシップじゃね!?

「お兄さんはがっつきすぎです。
そ、そんなにわたしに触り……じゃなくて、わたしと仲良くなりたいんですか?」
「仲良くなりたいわけじゃねえよ」
「えっ」

あやせの瞳から光彩が失せ、顔色がさっと変わる。
俺は魂を込めて言った。

「あやせの、『夫』になりたいんだ!」
「ぜ、絶対嫌です!今すぐここで死んでください!」

プロポーズの残酷な断り方選手権があったら優勝間違いなしの台詞だな!

「お兄さんって、いつもそうですよね!
全然本気じゃないくせに、軽々しく『結婚してくれ』とか『あやせは俺のものだ』とか!」

ぷりぷり怒るあやせたん。
ああもう可愛いなあちくしょう。
小さな頭に手を伸ばしかけ、

「勉強を再開します。お兄さんも自分の受験勉強を頑張って下さい」

穏やかな言葉と共に、キッと睨み付けられる。
この眼力、麻奈実なら確実に金縛りにあってるよ。
お姉さんと慕われているあいつが、あやせに睨まれることなんてあり得ないだろうけどさ。
結局あやせの機嫌を損ねたまま、時が過ぎ……。
夕刻。小さな雨粒が窓を叩く音に、俺とあやせは同時に顔を上げた。
空には蒼鉛色の暗い雲が広がっていた。
今は柔らかい雨脚も、半時間もしなうちに、土砂降りになっていそうな予感がする。

「こりゃ急いで帰らないとびしょびしょになるな」
「家の傘、貸しましょうか?」
「いいよ。桐乃に見つかったら、説明するの面倒だし。今のうちに帰るわ」

鞄に参考書と筆記用を手早く詰め、立ち上がる。
あやせも続いて立ち上がりかけたが、「ここでいいよ」と押し止めた。

「じゃあ、また明日な」
「はい。……今日も、ありがとうございました」

どんなにセクハラされて機嫌を損ねていようが、帰り際のお礼は忘れないあやせたんマジ天使。

あやせの家を出たところで腕時計を見ると、五時を僅かに回ったところだった。
沙織と黒猫はまだ家にいるだろうか。
桐乃は黒猫と喧嘩していないだろうか。

『なんでさっさと戦わないわけ?
顔合わす度にこんな長ったらしい厨二台詞言ってたら日が暮れるよ?
殺すー!とか、死んじゃえー!でいいじゃん』
『浅はかね。
剣戟の狭間に交わされる言葉の応酬から、視聴者は登場人物の深層心理を汲み取るのよ。
対象年齢の都合上、直截的な感情表現を余儀なくされているメルルと一緒にしてもらっては困るわ』

などと舌鋒鋭く議論している二人と、

『メルルにはメルルの、マスケラにはマスケラの良いところがあります。
ここは一つ、お互いの意見を尊重して、今は画面に集中しましょうぞ!』

その仲裁でてんやわんやしている沙織を想像する。
ぽつ。――ぽつ、ぽつ。
さっきよりも格段に大きな雨粒が、手の甲を叩く。
やべえ、マジで急いで帰らねえと――。

「――うわっ!?」

あやせの家から、帰路をしばらく進んだところにある曲がり角。
そこからいきなり飛び出してきたピンクの傘に、
俺は急ハンドルを切って、あわや体ごと地面に倒れかけた。

蹈鞴を踏んで、なんとか体勢を持ち直す。
前方不注意のあっちも悪いが、ぼーっと考え事をしながら自転車を漕いでいた俺にも非がある。
すれ違ったときに俺の肩がぶつかり、手から離れたのだろう、
逆さまになって転がっていたピンクの傘を拾い上げ、

「おい、大丈夫か……って」
「…………」
「お前……こんなところで何やってんだ?」

そこにあったのは、俺のよく見知った顔だった。
長い茶髪。均整の取れた体。丸みを帯びた顔の輪郭に、秀麗な目鼻立ち。
その女は――桐乃は差し出した傘には目もくれず、俯いたままで言った。

「図書館で、勉強してるんじゃなかったんだ?」
「あ、いや、これは……帰りにコンビニ寄ってたんだよ……それでこの道を、」
「……ッ、言い訳すんな!」
「……………」
「図書館に行ったら、地味子がいて、あんたがあやせのところにいるって、教えてくれた。
あやせの家庭教師って、あんたのことだったんだ。ずっと気になってたんだ。
あやせも、あんたも、そんなことあたしには一言も言ってくれなかったよね?
なんで?そんなの……そんなの、別に隠すようなことじゃないじゃん!」
「桐乃、ちょっと落ち着けよ。
お前に黙ってたのには、ちゃんとした理由があって、」
「っさい!喋んな!」

雨脚が強まる。
桐乃の綺麗で艶のある髪が、見る間に湿気を帯びていく。

「最ッ低……黒いのの次は、あやせ?
あんたってホント、妹の友達に手出すの好きだよね。
それも間を置かないで、次々とさぁ……」

涙なのか雨粒なのか判然としない透明の液体が、桐乃の頬を伝う。
傘を翳すと、払い除けられた。

「あんた……ったじゃん」

桐乃は言った。

「あたしに彼氏ができるまでは、彼女を作らないって、言ったじゃん!」
「桐乃!あやせは俺の彼女でもなんでもねえよ!俺は純粋に、」
「純粋に、何?
あたしの教科書使って、自分の時間削ってまで、あやせに勉強教えてたんだよね?
あやせに慕われて、あわよくば、なんて期待してたんでしょ?
下心見えすぎ。あーキモいキモい」
「お前、そういう言い方はやめろよ。俺があやせに勉強を教えてたのは、」
「もういい」

桐乃が面を上げる。
充血した虚ろな目には、本気の憎悪が見てとれた。

「二度と帰ってくんなッ!」

桐乃は左手に持っていた何かを地面に叩きつけ、
水溜まりを踏み散らして、もの凄いスピードで駆けていった。
本気で自転車を漕げば、追いつけないことはない。
でも、今追いかけたところで、いたずらに桐乃を怒らせるだけのような気がした。
足許を見る。そこには俺がいつも使っている、黒の折り畳み傘が転がっていた。

場所は変わって、駅前のマック。
全身ほどよく雨に濡れた俺の姿を認めた黒猫は、
まず目を丸くして、次に何かを悟ったように溜息を吐いた。

「あなたの慌てぶりと、身なりを見る限り、
あなたの妹との邂逅は穏やかなものではなかったようね」

桐乃と別れたあと、俺は沙織と黒猫の両方にメールを打った。
運悪く沙織は電車に乗った直後で、運良く黒猫は、電車に乗る直前だった。
猫耳をつけた黒猫と濡れ鼠のような体の俺は衆目を引きまくっているが、
そんなことがどうでもいいと思えるくらいに、俺は落ちこんでいた。

「これを貸してあげる。闇の眷属のみが使用を許される破邪の練絽よ」

俺は闇の眷属じゃねえし、それにそれ、どう見てもただの黒いハンドタオルですよね?

「人間のあなたにも使えるよう、特別な術式を施しておいたから問題ないわ」

さいですか。
黒猫からタオルを受け取り、髪、顔についた水滴を拭う。

「ありがとな。今度洗って学校で返すよ」
「それには及ばないわ」
「いいっていいって。それよりも、さ。桐乃のことなんだけど……」

黒猫の話と、俺が桐乃から聞いた話を総合すると、以下のようになる。

連続視聴で目が疲れ、雨が降りそうな気配がしていたこともあって、
四時半頃にマスケラ鑑賞会はお開きになったそうだ。
黒猫と沙織の帰りがけ、桐乃は駅まで見送ると言いだし、一緒に家を出た。
自分のピンクの傘と、恐らくは俺に届けるつもりだった、黒の折り畳み傘を後ろ手に。
駅で黒猫たちと別れた桐野は、図書館に行き、
そこでいつものように勉強している麻奈実を発見した。
麻奈実とあやせは仲が良い。
きっと麻奈実は、俺があやせに勉強を教えていたことを、とっくに知っていたんだろう。
そして当然、それを桐乃も知っていると思い、
俺の居場所として考えられるところ――あやせの家――を挙げてしまった。
それを聞いたときの桐乃の心中は、推して量れるもんじゃない。

「やっぱ、悪いのは俺だよな」
「そうね。全面的にあなたが悪いわ」

黒猫はこんなとき、安易に慰めたりせず、すっぱり切り捨ててくれる。
それが逆にありがたかった。

黒猫はアイスコーヒーを一口飲んで、

「あなたの選択次第では、現状は生まれていなかったはずよ。
家庭教師をすると決めたときに、きちんとその旨を、あなたの妹に説明していればね」
「あいつが納得したと思うか?」
「あの嫉妬深い雌が納得するわけがないでしょう。
でも……今と比べれば……憤りも随分マシだったのではないかしら」

黒猫の言うとおりだ。
俺は桐乃に家庭教師のことを隠すべきじゃなかった。
秘密にすれば、バレたときに酷い誤解を生むと分かっていたはずなのにな……。

「……携帯が鳴っていてよ?」
「ん?ああ、本当だ」

ポケットの中から、くぐもった音が聞こえてくる。
フラップを開くと、画面にはあやせの三文字が。

「出てもいいか?」

黒猫は無言で首肯する。

「もしもし?」
「お兄さん!?」

わっ、うるせえ!?
音量設定を変えた覚えはない。どんな声量で話してんだよ。

「き、桐乃が!桐乃がさっき……桐乃から電話がかかってきてっ……!
嘘、嘘、嘘嘘嘘……信じられない……桐乃があんなこと、言うわけないっ……!」
「あやせ、落ち着け。言ってることが支離滅裂だぞ」

すーはー。電話の向こうから、あやせが深呼吸する音が聞こえてくる。

「どうだ、落ち着いて話せそうか?」
「……はい」

声は依然震えていた。

「さっき桐乃から電話があって……それでいきなり、ぜ……ぜ……」
「ぜ?」
「絶好しようって、言われたんですっ!」

目頭を押さえる。
こりゃ桐乃の怒りはマジもんだ。
あやせにエロゲ趣味を全否定されたときも、親友でいようと努力したあいつが、
自分から『絶好』を切り出すなんてよ。

「わたし、頭の中が真っ白になって……いつの間にか電話が切れてて……!
メールを送っても、返してくれないし、電話しても、出てくれないし、
桐乃はいったいどうしちゃったんですか!?」
「実は、あやせの家を出て、しばらくしたところで……」

俺はかいつまんで、あやせの家を出てしばらくしたところで桐乃と遭遇し、喧嘩別れしたことを伝えた。
家庭教師の件が明るみに出たことで、桐乃が俺とあやせの関係について、勘違いしていることも。

「そんな……どうしよう、わたし桐乃のこと、傷つけちゃった……!」
「あやせに責任はねえよ。
あるとしたら、その場で誤解を解けなかった俺だ」
「……お兄さんだけに、責任があるわけないじゃありません。
だって……そもそもの発端は、わたしがお兄さんに、勉強のことで相談したことなんですよ?」
「それでも、家庭教師をするって言いだしたのは、俺だろ」
「………っ」

洟を啜る音が聞こえてくる。
よほど親友から『絶交』を切り出されたのがショックだったのだろう。
少なくとも、俺の想像が及ばないくらいに。

「桐乃のことは、俺に任せろ。
なんとかなったら、また俺から……いや、その時は桐乃に連絡入れさせるからさ、
あやせはそれまで待っていてくれ。くれぐれも変な考えは起こすんじゃねえぞ?」
「……はい」

電話を切って、溜息をつく。
黒猫は小馬鹿にするような笑みを浮かべ、

「『俺に任せろ』――大層な殺し文句ね?」
「茶化すなよ。ああいうしかねえだろ。
ただでさえあやせは桐乃のことになると、何しでかすかわからねえんだから」
「ふん……顕世に降臨したリヴァイアサンまでをも籠絡するなんて……やはりあなたには、呪いの上書きが必要なようね」
「の、呪い?ここでか!?」
「こ、こんなところでそんなことをするわけがないでしょう!?
突拍子もないことを言わないでちょうだい。……なんて破廉恥な雄なのかしら!」

黒猫はこほん、と可愛らしい咳払いをして言った。

「……あなたはこれからどうするつもりなの?」
「家に帰って、桐乃の誤解を解く」
「あなたの妹には、『二度と家に帰ってくるな』と言われているのではなくて?」
「へっ、額面通りに受け取ってたまるかよ」

席を立つ。

「帰ろうとしてたところを、わざわざ引き留めちまって悪かったな。
でもおかげで、助かったよ。一人なら多分、参っちまってたと思うから」
「ねえ」

黒猫はアイスコーヒーの黒い水面に視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。

「……あなたの家庭教師には、ほんの少しの他意もなかったのかしら」
「えっとだな……黒猫……」

お前もまさか、その……嫉妬……したりしてんのか?

「そ、そんなわけないでしょう!?
今すぐ消えなさい。
私の闇の力(ダークフォース)があなたを浸食する前に」

っだぁ!でかい声で厨二全開の台詞叫ぶなっての!

玄関には妹の濡れた靴があった。
帰ってきていない可能性を考えていた自分が馬鹿らしくなったね。
親父と喧嘩したならまだしも、俺と喧嘩してあいつが家出なんてするわけがない。
追い出されるのはいつも俺だ。

「京介、あんたまた桐乃のこと泣かせたでしょ!?」

シャワーを浴びようと風呂場に行くと、もの凄い剣幕でお袋がやってきた。
後ろ手でドアを閉める。

「ちょっと、京介!?開けなさい!」
「………ほっといてくれ。桐乃とは後で話するからさ」

御鏡の件以来、お袋は俺と桐乃の関係に妙に敏感だ。
一応誤解は解いたものの、まだ心のどこかでは『妹に手を出す鬼畜』と疑われている節がある。
やれやれ。ちょっと前までは、桐乃の癇癪の諫め役としてそこそこ信頼されてたのにな。

手早く服を脱ぎ、熱いシャワーを頭から浴びると、
雨や汗の気持ち悪い感触と一緒に、余分な感情が洗い流されて、
植物の蔓みたいにごちゃごちゃに絡まっていた思考が、解れていくような気がした。
そして、同時に思い出した。
今年の夏……俺が黒猫に告白されて、別れを切り出されるまでの顛末を。


『わたしと付き合ってください』

校舎裏で黒猫に思いの丈をぶつけられたとき、俺はその返事として、保留を選択した。

黒猫のことを恋愛対象に見られなかったからじゃない。
むしろ逆だ。照れ屋で、努力家で、友達思いの黒猫のことを、俺は好いていた。
ただ、それが『like』なのか『love』なのかと聞かれたとき、俺は判然とした答えを持たなかったのだ。
女の子に告白されといて、情けない話だけどよ。
それでも黒猫は待ってくれた。
翌日行われた打ち上げパーティは、気持ち悪いくらいに皆の仲が良かった。
桐乃は毒を吐かねえし、黒猫も妙に素直、沙織はいつも通りのムードメーカーで、
俺は……俺だけが、これからどうするべきなのか、ぼんやり物思いに耽っていたように思う。

御鏡の一件で、分かったことがあった。それは何か?
桐乃は、俺が思っているよりは、俺のことを嫌っていなかったということだ。
あいつは絶対に認めないだろうし、俺が自分で言うのもなんだが、
俺が『妹はやらん!』と妹の彼氏に宣言してしまうような、重度のシスコンであるように、
――あいつも、結構なブラコンだったらしい。
しかもその妹が兄を慕う感情には、一般的なそれ以上の、異性としての『好き』も含まれているんだそうだ。
打ち上げパーティが終わったあとで黒猫と二人きりになったとき、黒猫がはっきりと教えてくれた。
黒猫に告白されたときに気づいても良かった。
『好きよ……あなたの妹が、あなたのことを好きな気持ちに、負けないくらい』
この台詞の意味は、黒猫の告白の前と後では、意味がまったく別のものになる。
桐乃に慕われていると知ったとき、俺は純粋に嬉しかった。
でも……それはあくまで、兄妹としての話だ。
俺があいつを、一人の異性として扱うことはできねえし、これからもそれはきっと変わらないだろう。
黒猫は続けてこうも言った。
ある日を境に始まった桐乃のエロゲ趣味は、俺に素っ気ない態度を取られたことに対する代償行為だと。
瀬菜のような典型的な腐女子や、黒猫のような厨二病患者、沙織のようなガンオタでもなく、
女のオタクで、妹ゲーをあそこまで溺愛している奴を、黒猫は桐乃の他に知らないという。
俺はそれまで特に意識したことがなかった。
桐乃の言う『可愛いから好き』という理屈に納得していた。

でも、よくよく考えればそれは異常なんだよな。
桐乃の趣味は、オタクというマイノリティな括りの中でも、さらにマイノリティな括りに属する。
いくら昨今サブカルチャーが世間に受け入れられつつあると言っても、
エロゲの男の主人公に、女の自分を投影して、仮想の妹を可愛がる性癖は、
家族やよほど親しい友人でもない限り、『おぞましい』、『気持ち悪い』と思われても仕方がない。
真剣に桐乃の将来を考えるなら、その代償行為とやらを、やめさせるべきなのではないか?
親父やあやせみたいに、オタクでいることをやめろとは言わない。
ただ、桐乃の俺に対する『兄妹愛の延長線上にある感情』を取り払って、
もう少しまともな、理解者の多いオタク趣味に走らせるべきなのではないか?
俺は悩んだ末に、その解決策を、黒猫に求めることにした。
要するに、黒猫と付き合うことにしたのだ。

交際はスムーズに始まった。
黒猫が俺に告白したことは、桐乃も既知のことだったらしく、
俺が『黒猫と付き合う事になった』と言っても、
『あっそ。やっぱり付き合うことにしたんだ』と、興味なさげに振る舞っていた。
黒猫と過ごす時間は、心地よかった。
私服を着ている黒猫は、厨二成分控えめの、言うなればただの可愛い女の子で、
俺は自然と黒猫の本当の名前を呼び、黒猫も俺を名前で呼んでくれた。
俺たちはまるで普通のカップルのように、手を繋いでデートに出かけ、いい雰囲気になればキスをした。
一方で、桐乃の様子は日を経る毎におかしくなっていった。
俺への態度は一年と半年前のそれより酷いモンになり、
モデル撮影や部活にも行かずに、部屋に引きこもるようになった。
それを兄離れに伴う発熱のようなものだと放っておいたのは、今から思えば、どうしようもない俺のエゴだ。

親父もお袋もお手上げ状態、
終いに桐乃の様子を見てきて欲しいとお袋に頼まれ、桐乃の部屋に赴いた俺は、
そこで、妹をここまで追い詰めた自分の愚かしさを知った。

『あんた、男と付き合うのなんてやめて欲しいって……この前あたしに言ったよね……。
なのに……自分は黒いのと付き合うんだ……そんなの、ズルい!
あたしだって……あたしだって!兄貴に、女と付き合うのなんて、やめて欲しい!』
『なんで……』

答えに、予想がついていても、俺は言質を求めてしまう。馬鹿だから。

『そんなの、わかんないっ!』

桐乃はボロボロ涙を流して言った。

『黒猫はあたしの友達で!あんたのことが本気で好きなのも分かってる!
でも……ヤなのっ!あたしよりも黒猫の方が大切にされるのがヤなのっ!』

桐乃は俺の胸に顔を埋めて、両手でぼかぼかと殴ってきた。
こんなに無防備に、心の裡を晒す桐乃は初めてだった。
――いや。小さい頃は、これが当たり前の風景だった。
喧嘩したら、素直にお互いの気持ちをぶつけ合って。

『約束……ちゃんと……守ってよ……』

気づけば、俺は桐乃の頭を撫でながら言っていた。

『お前に俺を安心させるような彼氏ができるまで、俺も彼女を作らない』

と。

流石と言うべきか、黒猫は初めからこの展開を予想していたみたいだった。
俺が別れを切り出すよりも先に、雰囲気で察したんだろう、契約の"一時"解消を申し出てくれた。
意外だったのは、黒猫が俺に謝ってきたことだ。黒猫は訥々と語った。
桐乃の趣味や、度を過ぎたブラコンの異常性を俺に言ったことは、
俺に黒猫との交際を選択させるための、誘導だったのだと。

『でも、これだけは信じて欲しい。わたしがあなたのことを好きだと言ったのは、絶対の真実よ。
だから、もしもあの女に相応しい彼氏ができたときは――その時は再び、闇の契りを交わしましょう?』

黒猫は艶然と笑んで言った。
その深紅の眼の端に、小さな涙を浮かべながら。
そうして俺は黒猫と別れ――波瀾に満ちた夏は終わった。

シャワーを止める。
これから俺は桐乃の部屋に行き、あやせについての誤解を解かなくちゃならない。
あやせは進学のために友達と――桐乃と別れたくなくて、
勉強の不振を俺に相談したのも、家庭教師のことを黙っていたのも、
結局は桐乃に心配をかけたくなかったからだと言うことを、辛抱強く話さなくちゃならない。
それはそれは酷い暴言を浴びせかけられるだろうし、ビンタも数発食らうだろう。
それは間違いねえ。でもさ、それですむんならいいか、と思っている自分がいる。
なんてったって、俺はあいつの兄貴だからな。
それにあやせにも、『俺がなんとかする』とか、『俺に任せろ』なんて啖呵切っちまったしよ。

翌日。
俺は今、図書館の勉強ブースに麻奈実と並んで座っている。
昨日の雨模様と打って変わって空は刷毛でさっと塗りつけたようなセルリアンブルー、
地上には涼やかな風が吹いていて、まさに絶好のお出かけ日和だが、受験生の俺たちには無関係だ。
目線を右斜め後ろの角にやれば、そこだけ雰囲気が違っていて、周囲の男どもの視線を一挙に集めていた。
ま、当然だよな。
天下の読モ様が二人もそろって、仲睦まじく勉強しているんだから。

結論から言っちまうと、俺は桐乃の説得に成功した。
おかげで今現在、俺の両頬には薄い紅葉が賑わっているが、
あやせと桐乃が絶交せずに済んだのだから、これくらい安いもんだろう。
桐乃はその後、夜の遅くまであやせと電話で話し込んでいたようで、
そこで今日あやせの家で行うはずだった家庭教師を、
図書館での合同勉強に切り替えることが決まったそうだ。

と、俺の視線に気づいたのだろうか、
クスクス笑い合っていた二人が揃ってこちらを向いた。
んべーっ、と舌を出す桐乃。可愛くねえヤツ。
慌てて目線を逸らすあやせ。初心なあやせたん可愛い。

「何見てるの、きょうちゃん?」
「あいつら、ちゃんと勉強してるかなって」
「ふふっ、きょうちゃんは心配性なんだから。
……桐乃ちゃんとあやせちゃん、こうして見てると、すごく仲がいいよねえ」
「ああ、そうだな。あいつらも自分らのことを親友って言ってるしな」

麻奈実はシャーペンのノックで顎先を突っつきながら、

「ねえ、わたしたちって、親友、なのかな?」

「何言ってんだよ。俺たちは幼馴染みだろ」
「ええー、じゃあねじゃあね、親友と幼馴染みって、何が違うの?」
「さあな。どっちも似たようなもんなんじゃねんの。
……切っても切れねえ関係って意味ではさ」
「それ、全然答えになってないよう……」

麻奈実は釈然としない様子。
俺は財布を手に立ち上がった。

「ジュース買ってきてやるよ。何がいい?」
「んーとね、わたしは、緑茶がいいかなあ」

だよな。
俺は勉強ブースを抜けて、図書館を出てすぐのところにある自販機に向かった。
活字と睨めっこしていた目に、蒼穹から燦々と降り注ぐ日差しが眩しい。
硬貨を投入して、四人分のジュースを購入する。
桐乃やあやせに好みを聞かなかったのは、
桐乃は『コンビニまで走って割高なジュースを買ってこい』と無茶を言うに決まっているし、
あやせは遠慮するだろうと思ったからだ。

ガコン。
最後の一本が出てきたところで、背後に気配を感じた。
嗅ぎ慣れた、フルーティな香水の匂い。

「あやせも休憩か?」
「はい……お兄さんと、少し、お話がしたくて」

俺がベンチに腰掛けると、あやせも人一人分の間隔を空けて隣に座った。
思わず、苦笑してしまう。
ベンチの端から端まで距離をとられていたときのことを思うと、これでもすげえ進歩だよな。

「何が可笑しいんですか?」
「なんでもねえよ。ジュース、どれがいい?
ああ、緑茶は麻奈実のだから、それ以外で」
「じゃあ……これを」

林檎ジュースを選び取り、財布を取り出しかけたあやせを、やんわり制止する。
女子中学生から代金を徴収するほど俺の器は小さくない。
あやせは困ったように瞬きして、プルタブを空けた。俺もそれに倣い、白葡萄の缶ジュースを飲むことにする。
悪ぃな桐乃。お前の選択肢はこれで無くなったぜ。

「勉強はもうバッチリか?」
「はい……さっきなんかわたし、桐乃に質問されたんです。
そんなこと初めてで……ちょっと感動しちゃいました」
「そっか」
「お兄さんのおかげです。わたしが躓く度に、お兄さんが手を取ってくれたおかげで、
今ではわたし、あんまり数学や理科が、苦手じゃなくなったような気がします」
「気がするんじゃなくて、実際、そうなんだって。
あやせは自分が思ってる以上に、この一ヶ月よく頑張ってたよ。
予想問題解くみたいに、落ち着いて解けば、テストも絶対上手くいくさ。俺が保証する」
「………はい、ありがとうございます」

なんか今日のあやせは妙に素直だな。
折り畳みナイフのような秘めたる狂気が感じられないというか……なーんか調子狂うぜ。
ここは一発、軽いセクハラ発言で、いつものあやせに戻ってもらうとしますかね。

「あやせ、ジュースを交換しないか?」

「いいですよ?」
「おう……って、えええぇぇえぇぇ!?マジで!?」

いいの?あれほど生理的に受け付けないって言ってたお兄さんと間接キスだぜ?
ここは『絶対イヤです!』とか『死ねぇ!』とかが定石だろ!?
あやせはそっと缶を左脇に置いて、膝の上でぎゅっとこぶしをつくり、

「た、ただ味を飲み比べるだけじゃないですか?
お兄さんは意識しすぎですっ……!」
「ちょ、無理しなくていいって。
あれだろ、家庭教師してもらった義理で、我慢してんだろ?」
「本気でお兄さんに自分のジュースが飲まれるのが嫌なら、
わたし、義理とか恩とか関係なく断っていますから」

茫然とする俺を余所に、あやせは消え入りそうな声で言った。

「わたし、ずっと前から気づいてるんですよ?
お兄さんが本当は……初めて会ったときの印象そのままの、優しいお兄さんだってこと」

えっと、何言ってるのかなー、あやせたん?
俺は近親相姦上等の鬼畜だよ?
妹との愛の証を蒐集して、それを他人に見せびらかして喜ぶような変態だよ?

「桐乃の趣味のことで、わたしと桐乃が喧嘩したとき、
公園でその……ああいったものを見せびらかしてきたのは、
怒りの矛先を自分に向けることで、わたしと桐乃を仲直りさせるため、だったんですよね?
わたしの嫌がるようなことをするのも、その嘘を本物にするため……違いますか?」

うーん、お兄さんあやせたんが何言ってのかさっぱりわかんねえわ。

「麻奈実さんに、一度お兄さんの悪口を言ったことがあるんです。
そうしたら、わたし、初めてお姉さんに怒られちゃいました。
お兄さんはそんな人じゃないって……桐乃のことを誰よりも大切にしてる、いいお兄さんだって……」

本当、言わなくていいことばっか喋るよなあ、あいつ。

「俺が麻奈実に吹き込んどいたんだよ、あやせに聞かれたらそう言っとくように」
「嘘、つかないでください」
「嘘じゃねえよ」
「じゃあ……桐乃の言ったことも、嘘ですか?
お兄さんは桐乃にも、自分のことを良く言うように、吹き込んでいたんですか?」
「…………」
「桐乃は……あの子は絶対に認めないでしょうけど……お兄さんのことが大好きなんです。
学校でも、撮影でも、ことあるごとにお兄さんの話をしていて、
お兄さんのことを話しているときの桐野は、すっごく笑顔で……。
きっとその笑顔は、わたしがどんなに頑張っても、作れないものなんです。
わたしがお兄さんに相談しようと思ったきっかけ、何だか分かりますか?
ある時、桐乃が言ったからです。
『何か困ったことがあったら、あたしか、うちの兄貴に相談すればいいよ』って……すごく、誇らしげに」

「あいつが、そんなことを……」
「わたしは……完全にではないですけど……ある程度は、桐乃の趣味を認めています。
だからお兄さんは、もう、嘘をつかなくてもいいんですよ?」

一気に捲し立てたせいか、頬は上気し、双眸は僅かに潤んでいる。
分かったよ。ここまで言われたらぐうの音も出ねえ。観念する。でもさ……。

「桐乃の前では、これまで通り、俺のことを罵ってくれねえかな。
妹のことを性の対象に見てる変態シスコン兄貴として、扱って欲しいんだ」
「ど、どうしてですか?」

あやせは引き気味で言った。そりゃ引かれるのも仕方ない。
冷静に今の台詞顧みたら、真性マゾの懇願にしか聞こえねえよ。俺は言った。

「だってそのほうが、桐乃にとってもあやせにとっても、楽だろ?」

桐乃は俺の存在を言い訳にすることで、あやせからエロゲ趣味を見逃してもらう。
あやせは俺の存在を理由にすることで、桐乃のエロゲ趣味を見逃してやる。
さっき言ってたけど、あやせもまだ完全に、あいつの趣味を認められたわけじゃねえんだろう?
だったら残りの怒りの矛先は、これまで通り俺に向けておいてくれよ。
本音は別でも、表向きはさ。

「お兄さんは、それでいいんですか?」

あやせ、いっぺん自分の歳言ってみ?

「じゅ、十五ですけど?」
俺は十八だ。お前らよりも三つも年上。
だからその分打たれ強くて、緩衝材にはぴったりの役どころだろ。

「お兄さん……!」

俺は何気なく――本当に何気ない仕草で、あやせの頭に手を置いた。
まるで、妹にしてやるみたいにさ。

「じゃあ、その代わりに……。
わたしとお兄さんの二人きりのときは、本当のお兄さんでいてくれますか?」
「ほ、本当の俺?」
「だから、その……、わざと嫌われるようなことをしたりしない、
わたしが初めてお兄さんと会ったときのような、優しいお兄さんです」

ハードル高いなおい!?
あやせと初めて会ったときの俺って、どんな感じだったかなあ。よく思い出せねえや。
……ああ、やっぱ嘘。よく覚えてる。
あの時は確か、沙織から同人誌入りの箱が届いて、それを桐乃から取り戻そうと必死だったんだっけ。
苦い思い出に溜息をつきつつ、俺は腕時計を見る。

「オーケー、分かったよ。努力する。
……さ、この話はもう終わりにして、戻ろうぜ。
桐乃や麻奈実が、俺たちのことを探しにこないうちに」
「もう一つだけ、お話があります。
昨日電話で、桐乃が教えてくれたんですけど……。
お兄さんは桐乃に彼氏ができるまで、彼女を作らないそうですね?」

おいおい、あいつそんなことまで喋ってたのかよ。
家に帰ったらお灸を据えてやらねえと。どうせできねえクセに、って突っ込みはナシだぜ?

「もしも桐乃に……ま、まだまだ先だとは思いますけど!
もしも桐乃に彼氏ができたら……」

長い黒髪が秋風を孕み、一時、あやせの横顔を覆い隠す。
あやせはもじもじと爪先を擦り合わせていたが、

「その時は……」

やがて眦を決するように唇を湿らすと、真正面から俺を見据えて言った。

「わたしを、お兄さんの彼女にしてくれますか?」

ありきたりな表現だが、時が止まったような錯覚がしたね。
風のそよぎや、街路樹の葉擦れの音。
祈るように組まれた両手や、朱色に染まった瓜実顔。
聴覚、視覚の順に感覚が戻ってくる。
そして最後に、俺のポンコツな脳味噌は理解した。
俺がたった今、あやせに告白されたことに。

「あー……それって、仕返しのつもりか?」
「え……えっ?」
「ほら、今まで俺が『結婚してくれー』とか、『あやせの夫になりたい』とか言ってたことに対する……」

あやせは愕然とした表情になり、やがてわなわなと肩を震わせつつ、低く怖い声で言った。

「ええ……もちろん、当たり前じゃないですか。
わたしが本気で!お兄さんに告白するなんて!あり得ないですよね!」

こ、怖ぇ!な、なな、なんでそんなに怒ってんの?
あやせさん前にはっきり仰ってましたよね?『現状ではわたしがお兄さんの彼女になるなんてありえない』って。

「確かにそうは言いましたけど……言いましたけどっ!
ああっ、もう、信じられない!お兄さんの馬鹿っ!死んじゃえ!!」

あやせは盛大に俺を罵倒して、図書館の中に駆け込んでいった。
わ、わけわかんねえ。どこで選択をミスっちまったんだ?

「………」

おいチビッ子、憐れむような目で俺のこと見てんじゃねえよ!
その直後、俺の親父に匹敵する強面のオッサンが出てきて言った。

「うちの子に何か?」

いやー聡明な顔立ちのお子さんですねえアハハ。
あやせのいなくなったベンチに一人、肺の中身を全部吐き出しそうな勢いで溜息を吐く。
見上げれば、高く澄んだ秋空。
雲が形を変える速さで、上の方では強い風が吹いていることが分かる。
このまま午睡したくなるような温かさだが、俺もそろそろ戻らねえとな。
俺は白葡萄ジュースの缶を、手近なゴミ箱に投げ捨てて腰を上げ……、
あやせが置き忘れた、否、正確には、あやせが俺と交換しようとした、林檎ジュースに気がついた。

「まだ残ってるな」

辺りを見渡す。
……ったく。何恥ずかしがってんだか。中学生じゃあるまいしよ?
缶の中身を一気に飲み干す。
林檎のものだけじゃない、どこか懐かしく甘酸っぱい味わいが、喉を流れ落ちていった。


『俺の妹がこんなに可愛いわけがない 9巻(偽) 第一章』  おしまい

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